労組書記長(←元)社労士 ビール片手にうろうろと~

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神奈川県大磯町の高麗山 -時代とともに変化する歴史像-

2017-01-30 | 脱線編6 その他

 昨年末に書いていたのに投稿し忘れていた記事。
昨年のクリスマスの波乗りの後の午後、御朱印を貰おうと大磯方面へ。
で、最初に寄った高來神社だが、この奥に、平塚の海から一番近い里山である高麗山(こまやま)への登り口があった。
宮司さんに聞くと、20分ほどの山登り、クロックスやけど、それなら登れるか、せっかくやし、ずっと気になっていたし、登ってみるか、ってことに。
男坂と女坂の分岐、そら登りは男坂やろ~って行ってみたら、おやおや意外と急峻で、うっかり足を滑らしたら止まらんとかなり滑落するな~って感じ。
こんな靴やし気を付けなきゃーって思いつつ歩いていたら、孫からLINEでビデオ通話やし~(o゜▽゜)o
息は切れるし、足下注意やし、孫とも喋りたいし、うかうか歩いてられない。
良い子にしてたからサンタさん来たよ~って超嬉しそうやった、んで、じいじなんで山なん?って言うから、ハイキングしてるねん、って答えたら、ハイキングって何?ってな質問を納得させるの大苦労(;^_^A



 この高麗山、平塚の西、大磯方向にこんもりと見える山。
新日本書記によると、昔、多くの朝鮮人が朝鮮半島から先進文化を持ってやって日本にやってきたが、この高麗山は、渡来人が、船で大磯の海岸に上陸するときの格好の目印になったといい、奈良時代には、高句麗が唐や新羅に滅ぼされ、王族の高麗若光ら多くの難民がこの地のふもと「化粧坂」あたりに住み帰化したというそうだ。
山麓にある高来(高來)神社は、もともと高麗神社と呼ばれあがめられていたが、その後、明治30年に、当時の大日本帝国の、清国など東アジアへの外交戦略の影響もあり、高来(高來)神社と改称されたとのこと。
噛めば噛むほど、日本人としての民族的な歴史的謂われがあふれ出てくる、由緒あるお山、それ言え、山頂の案内板に偏向的な思想によるいたずらがされ、致し方なくな修正が施されたのだろう、なんかいろいろ考えさせられた。

 ウィッキペディアからの引用で恐縮だが、日本人は、次のような幾つかの考え方により定義、分類が可能である。
国籍による分類 - 日本国民、民族的分類 - 大和民族(和人とも)、琉球民族、アイヌ、人類学的分類 - モンゴロイドの1つ。
旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から沖縄諸島までの地域に住んだ集団を祖先に持つ。祖先はユーラシア大陸東部より複数回にわたって渡来。樺太を経由して北海道に至るルート、朝鮮半島を経由するルート、南西諸島などを経由する南方ルートなど複数の渡来経路が考えられる。
とのこと、ルーツはあっち。
この後寄ったフィットネスクラブで読んだ、その日の朝日新聞朝刊にたまたまこの企画特集 3【神奈川の記憶】(50)大磯の高来神社という特集記事があって、この奇縁にビックリしながら、さらに民族的な歴史的背景の複雑さをはらんだこの高麗山に再び思いをはせた。

 168mの山頂では、ほとんど見晴らしはなく、昔、高来神社に上社あとが残るのみ、下りで使った女坂の途中に見晴らしが利く場所があり、そこから花水川河口を中心に大磯から平塚までが見渡せるが、絶景とは残念ながら言えず。
足鍛えとして程良い男坂・女坂で有り、若葉の季節や、紅葉の季節には気持ちよい里山ハイクになりそう、大磯駅からジョギングしてから軽いトレランってな組み合わせもありかと。
わざわざ鎌倉まで行かなくてもいいやん、いいな、このお山。

企画特集 3【神奈川の記憶】(50)大磯の高来神社
■「高麗」から名称変え今に ◇時代とともに変化する歴史像
 様々な記念年に今年も巡り合ったが、〈高麗(こ・ま)郡建郡1300年〉は神奈川ゆかりの中では群を抜いて古いものだった。奈良時代の歴史書はこう記している。――神奈川など東国一円の高麗人(こまびと)を埼玉県日高市の周辺に集め、716年に高麗郡を設置した――
 三国が競合していた朝鮮半島では7世紀の後半、新羅が統一を実現。滅亡した高句麗と百済から多くの人が日本に渡ってきた。埼玉に移るまで住んでいた候補が大磯町の高麗山一帯だと聞き、節目の年も暮れようとする師走の1日、その地を巡ってみた。高麗山は標高168メートル。すくっと見上げるように立ち上がる。「奈良の神社のような雰囲気があり、古くから信仰の場であったことを感じます」と山すそにある高来(たかく)神社の渡辺幸臣宮司。その歴史は町郷土資料館学芸員の富田三紗子さんが説明してくれた。
 高句麗の王族が渡来し大陸の文化を伝えたなどと伝わるが確かな記録はない。長らくは高麗寺というお寺で、最盛期は鎌倉時代。江戸時代は寺領を持ち、一帯は高麗寺村となり、寺の住職がその村長役だった。明治維新の神仏分離で、住職が神官となり、高麗神社に姿を変えた。それが1897年に高来神社と名前を変え現在に至る。改称の理由を伝える記録はないというが、「高麗の名を嫌ったのでしょう」と渡辺宮司。朝鮮をめぐった日清戦争で日本が勝利したのが1895年。中国の力が後退した朝鮮では、日本に対抗するためロシアに近づく勢力が登場。生き残りをかけて朝鮮が国号を大韓帝国と変えたのが1897年。千年以上続いた高麗の名前を変えたのは、そんな時期だった。その間、親露派の王妃の殺害にまで踏み出す。思うようにならない朝鮮の姿勢に日本はいら立ちを募らせていた。
 そんなことを考えているうちに1人の人物を思い出した。乙支文徳(ウル・チ・ムン・ドク)。中国・隋の大軍を知略で破った高句麗の将軍である。今年夏、北朝鮮を想定し行われた米韓合同軍事演習にも「乙支フリーダムガーディアン」と名を冠していた。日本でいえば聖徳太子の時代の人物だが、早稲田大学の李成市教授によると、救国の英雄、民族の救世主として注目されるようになったのは国の存続が揺らぐ危機の中のことであり、大磯で神社が改称したのとほぼ同じ時期だったという。
 はるか古代の歴史。日本ではつながりを消し去ろうとし、朝鮮では救いを見いだそうとしていた。その後、日露戦争を経て1910年に日本は韓国を併合。すると「昔から日本と朝鮮は一体だった」という視点が登場し、古い朝鮮の痕跡を大事にするようになる。歴史像は時代や社会に応じ変化する。
 視野を広げると、歴史認識の違いはさらに多様だ。北朝鮮では、同じ平壌を都とする高句麗を正統な王朝と見なし、中国の唐と結んで高句麗を倒した半島南部の新羅を、米国と同盟して敵対する韓国になぞらえる歴史観があるという。高句麗の滅亡の後は「統一新羅」時代とされてきたが、韓国では「南北国」時代に変えようとの動きがある。高句麗人が加わり北方に興った渤海を自国史に加える考えで、高句麗や渤海を自国史に含めようとする中国に対抗するものだ。
 高麗山の周辺を歩きながら「歴史とは何か」を問われる思いがした。フランスでジャンヌ・ダルクの像がどのように変遷したかという研究を読んだことがあった。15世紀の人であるジャンヌは、16~18世紀はあまりたたえられることがなかった。フランス革命の後には、「ジャンヌが受けたという天啓は幻覚」であり「血液循環の激変による体の不調が原因」などと指摘された。それが19世紀の後半、普仏戦争の敗北という苦難の中、〈救国のヒロイン〉として称賛を集めるようになった。何となく知っていると思っていた歴史像の来歴を知り驚いた。
 「神奈川の記憶」が50回を迎えた。気づきにくい足元の歴史を掘り起こしてみたいと始めたが、次第にこのジャンヌの研究が気になった。歴史をめぐり国の間や社会内部で争いが続く。「知っていると思っている歴史像の正体」を問うことが必要なのだろう。そんなことを考えながら、この作業をもう少し続けます。高来神社の前には東海道が走る。江戸時代に、そこを通った朝鮮通信使は、日本の文化人にとって憧れの存在だった。江戸時代の歴史が専門だという富田さんの言葉が記憶に残った。「かつては朝鮮がもっと近かったのでしょうね」まったく同感。なぜ遠くなったのかを冷静にさぐってゆかなくては。(渡辺延志)朝日新聞2016年12月25日
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