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女優列伝Ⅲ 菅井きん2  移民をマジに考えるとき

2017-07-17 09:01:36 | 日記
A.女優列伝Ⅲ 菅井きん2
人がある偶然のきっかけで、それまで知らなかった世界に出会い、そこに自分も参加してみたいと思うことは、ただの気紛れ、一時の軽い憧れ、熟慮も展望もない若気の過ちなのだが、それが人の一生を左右する運命の分かれ目だ、ということは明らかな真実なのだ。しかし、それがうまくいくかどうかは、やってみないとわからない。この人の場合、日本が大戦争に負けた、つまり世の中がひっくり返った時代に、確かに自分の意思で第一歩を踏み出したのだ。

「時は、昭和二十一年三月、場所は日比谷……。
 私と親友のK子は、興奮のため顔を火照らせ、足早に銀座方向へと歩いていました。
「彼女のとった決断はわかるわよ。でもね、三人の子供を置いて家を出るというのは、私にはどう考えてもわからない」と、K子。
 私たちが、今しがた有楽座で見てきたのは、イプセンの『人形の家』でした。
 娘の頃は両親の「人形っ子」、のちには弁護士である夫の「人形妻」にすぎなかったノラが、初めて人間に、そして「女」に目覚めて家を出る。
 ノラが夫を助けようとして、偽借用証書に判をついたことで窮地に立った弁護士は、妻を偽善者、犯罪者とののしる。ところが事態が好転するや手のひらを返すように、「お前のおかげだ、お前を許すよ」とやさしく言う。
 ノラはこの夫の態度に、舞踏会行きの衣服をかなぐり捨て、普段着に着替える。
「すべてはこれでおしまい。あなたはご自分と同じ人間として私を愛していたのではありません。ただ人形のように取り扱ってくれただけです。わたしは八年間もここで暮らしながら、そんなこともわからず、三人の子供を産んでいたのです!」
 こう叫んでドアから出ていく。

 この『人形の家』は、女性解放をテーマにした社会劇として、日本ばかりでなく、世界中で大評判になりました。つい最近まで、ノラといえば、目覚めた女性の代名詞として使われていました。
 評判を聞いて、私たちも見に行く気になったわけです。
 東京芸術劇場の第一回公演で、ノラを演じたのは、赤木蘭子さんでした。
「ねえ、キミ子、どう思う?」
 K子はしきりと、女が子供を置いて家を出るというところにこだわります。
 昭和二十一年三月といえば、終戦からたった半年しかたっていません。日比谷から銀座へかけての東京のメインストリートも、まだ焼け残った建物の間にようやく新しい建物がポツリポツリ目立ちはじめた頃。
 歩いている人の服装も、男の人は、国民服というカーキ色の上下服、女の人ももんぺ姿(今おばあちゃんたちが愛用するモンスラにも遠く及ばない)で、街全体が色彩を失っていました。
 栄養の行き届いたピンク色の肌で、さっそうと歩いているのは進駐軍の兵隊さんだけです。
 戦争が終わって、そこはかとない解放感は漂っていたとはいえ、人々の心には、まだまだ古い殻がしっかりまとわりついていました。だからこそ、『人形の家』が新鮮な衝撃だったのですが、K子のこだわりもまた、当時の若い女性としてごく当たり前だったのです。
「ねえ、どうなの?」
「そうねえ」
 生返事ばかりしていて悪かったのですが、じつはその時の私の関心は彼女とはまったく別のところにあって、それがどうしようもないくらい私を捉えてしまい、ノラの行動についてあれこれ考える余裕を失っていたのでした。
 あのとき私を捉えて離さなかったものを、今、ひとことでいうと、演ずることのすごさ、とでもいったらよいでしょうか。
 もちろん、私が芝居を見たのは、それが初めてというわけではありません。父親が芝居好きでしたので、小さい頃からよく劇場へは連れていってもらいました。けれども、父が好んだのは、歌舞伎やせいぜい新派であり、私にとってのそれらの舞台は、自分とはまったく関係のない、非日常的な世界のことだったのです。
 でも、今日の『人形の家』は違っていました。舞台の上では、ごく当たり前のいすやテーブルが置かれ、登場人物は、日常の話し言葉でしゃべっていました。それなのに、そこに進行していく事柄は、人生の深遠を垣間見せ、人の心の内のひだに深く食い入っていくようでした。
 役者さんたちも、赤毛のかつらをかぶり、メークをしているとはいえ、ごく身近な人に感じられました。
 ごく身近に感じられる人が、私たちの心をつかみ、感動させ、私の友達がそうなったように深く考え込ませる。これはすごいことだ。私にもこんなことができたら、人生の一大目標になるのに……。
 私はまるで熱病にかかったようでした。」菅井きん『わき役ふけ役いびり役 女優生活四十五年』主婦と生活社、1990.Pp.8-11.

「小学校を卒業すると、白金台にある私立の頌栄という女学校に進みました。姉が行ったので自動的にそうなったのですが、最近ドラマでご一緒した高橋ひとみさんから、「後輩です、よろしく」と挨拶されて、キョトンとしていると、「私も、頌栄なんですよ」と言われ、やっとわけがわかったのでした。
 よく聞いてみると、白川由美さんや音無美紀子さんも、頌栄の卒業生とのことで、へーえ、やっぱりお嬢さん学校だったのかな、とちょっとばかり鼻を高くしました。
 それにしてもひとみちゃんと話していたら、私の頃と校則も変わってないし、何より驚いたのは、二人に共通の先生がまだ現役でいらっしゃったことでした。
「うそォ、ほんと?」
 今の若い人の使う感嘆詞が思わず出てしまいました。私立の女学校ならではのことです。
 (中略)
 そのうち、女学校の先生の紹介で、文部省の総務課へ、徴用逃れに事務員として勤めるようになりました。徴用というのは、戦争が生んだ言葉で、今では死語になりつつありますが、学校を出てぶらぶらしていると、国の命令で軍需工場などで働かされることをいいました。いつまでものんびり花嫁修業などしていられる時代ではなかったのです。そこでほとんどの人が、何らかのツテを求めて勤め先を探し、徴用に取られない対策を立てていました。
 虎ノ門の文部省にしばらく通ううち、直接の上司が東京帝大(今の東大)の学生課に移ることになり、私も一緒に移ることになりました。
 それは終戦前後のことで、玉音放送は自宅で聞きました。
 学生課は、安田講堂の地下にあって、終戦後は、日を追って復学する学生の手続きで大忙しになっていきました。
 明けて、昭和二十一年。相変わらず私は事務員として東大に通っていましたが、戦争も終わり、もう徴用逃れの必要もないのに、いつまでも興味のない仕事を続けていていいのだろうかと、毎日悶々としていました。
 時代が大きく変わり、誰もが新しい生きがいを求めて動き出していました。
 『人形の家』の切符を手に入れたのはそんな頃だったのです。
 それ以後の私は、ちょっとモノに憑かれたようになってしまいました。夢見る事務員なんて困ったものです。家の私の机の引き出しには、『人形の家』のプログラムが大切にしまわれていました。プログラムの最後のページには、東京芸術劇場の研究生募集の文字が踊っていました。二十歳の東大事務員は、朝に夕にプログラムを取り出しては、「研究生募集」の五文字を胸をドキドキさせながら眺めていたのです。
 (中略)
 今でもときどき、よくもまあ、一人異質の世界へとび込んだものだと思うことしきりです。
 その時の私は、何かにつき動かされるようにペンをとり、申込書に記入していたのです。生れて初めて、自分の意思で行動していると思うとゾクゾクしました。誰にも内緒で、申し込み書を提出したのは締め切りギリギリだったと思います。
 日ならずして、採用試験の通知が舞い込みました。会場は、あの『人形の家』を見た有楽座(今は日比谷シャンテになっている)の上でした。
 試験の中身は、朗読とリズム感の試験と口頭試問。太鼓に合わせて歩かせられたのは覚えていますが、あとはほとんど記憶がありません。でも、いずれも簡単なものだったのは確かです。
 応募者もそう大勢ではなかったのに、数日して届いたのは「不合格」の通知でしたから、よほどハジにも棒にもかからなかったのでしょう。
 やっぱり私は、芝居なんかには向かないのだ、それがわかっただけでもよかった、となかばほっとして、事務の仕事に精を出そうと思っていたところへ、追いかけるようにして届いたのが「補欠合格」の通知でした。
「女優が美人がなるものだ。鏡とよく相談しろ」
 娘の勝手な行動を知った父は、カンカンに怒りました。
 芝居を見るのは好きだった父ですが、出かける先は歌舞伎座や新橋演舞場。そこにかかる歌舞伎や新派しか知らないのですから、新劇など、およそ得体の知れない遊び人の集団ぐらいにしか思えなかったのでしょう。
「お前の教育が悪いからだ」と、母はさんざん父にしぼられたようです。」菅井きん『わき役ふけ役いびり役 女優生活四十五年』主婦と生活社、1990.Pp.16-21.

 娘が女優になる、という選択を父はまっとうな花嫁への道を逸れた人生の過ちだと決めつけて、とんでもない奴だと怒り心頭。それは当時では当たり前の判断だっただろう。とくに「新劇」の世界は、反体制、社会主義左翼の牙城だと見られていた。そんなところに飛び込んで、危険な芝居を演じたりすれば、官憲に逮捕され獄につながる、という発想も、ほんの数年前までは目に見える現実だった。しかし、若い須斎キミ子さんには、そんな配慮は無意味だったし、実際そんなことを考えること自体、昭和21年の現実にはなんの意味もなかった。

「私の演技の勉強は、東京芸術劇場の研究所がスタートラインです。私の現在の演技も、この時に教えていただいたことが基礎になっているのではないかと思います。
 東京打芸術劇場というのが、劇団であったのか、たんなる集団であったのか今となってはよくわからないのですが、久保栄さんを主宰者に、薄田研二さん、山本安英さん、滝沢修さん、清水将夫さん、加藤嘉さん、森雅之さん、赤木蘭子さんなどがいらっしゃいました。
 こうあげただけでも、超がつく、そうそうたる顔ぶれで驚いてしまいます。日本の新劇のいしずえを築いた方たちの多くがここから分れていったといっても過言ではないでしょう。ほかには、文学座と、戦後いち早く再結成された村山知義さんの新協劇団がありました。
 研究生として、短い期間でしたが、これらの方たちの声咳に接することができたのはほんとうに幸せでした。ただ、劇団としても、研究所としてもきまった場所をもっていたわけではありません。本部は久保先生のご自宅になっていました。稽古や講義は、帝劇の上の稽古場だったり、幼稚園を借りたり、バレエ教室を借りたりしてやっていました。
 講義は毎日あったのですが、そのつど、明日の教室はどこどこと発表されるのですからまさに流浪の民。休みでもしたら、次の日、どこへ行ったらよいのかわからなくなってしまいます。時間も、幼稚園やバレエ教室が使っていないときですから、夕方からだったり、午前中だけだったりとまちまちでした。先生方のお宅へ出かけて講義を聞いたこともありました。
 森雅之さんが演技の話を、滝沢修さんが発声法を、薄田研二さんがメーキャップの話をなさいました。その当時は、ドーランという舞台化粧品が不足で、薄田さんが、「ぼくが発明したんです」とおっしゃって、レンガを乳鉢ですりつぶし椿油で練ったものを「これをつけるといい色になります」とすすめられたことがありました。
ところがそれをつけたら、顔がかぶれたというので、これはすぐに中止になりました。
 おかしな時代でした。でも、みんなが手さぐりで何かを作りあげていこうとしていた点では、活気にあふれた、良き時代でした。」菅井きん『わき役ふけ役いびり役 女優生活四十五年』主婦と生活社、1990.Pp.24-26.

 須斎キミ子さんが菅井きんという女優になったのは、まったく偶然で、それも何度も外れそうになった不確かな道だった。しかし、自分が嫌った芸名を結局、最後まで演じ通して人々の記憶に忘れがたいものにした。そういう人を産み出したのも、「戦後」という特殊な時代の軌跡だったのかもしれない。



B.移民をマジに考えるとき
 人口問題は10年50年、いや百年単位の国家の基本問題である。しかし、時々の政治家は、自分が政治家をやっている間はそれが深刻な危機にはまだ至っていないと思って、まるで何事もないかのように何もしない。そのことが今や、彼らがスローガンにする国家の未来、美しい日本を確実に衰弱させ、泥沼に向かわせていることを、自覚していない。

「日曜に想う:日本が温存する「切り札」 編集委員 大野博人
 日本人の人口は、昨年1年で約30万人減った。生まれた子供の数も100万人を切った。総務省が先日発表した人口調査の結果だ。
 社会は急速に縮み、老いている。だが、その深刻さを、私たちはどれくらい強く自覚しているだろうか。
 暴力団員の4割超が50歳以上――。少し前、そんな話を小紙東京本社版の夕刊で見た。「暴力団排除条例が施行された影響で、組員になろうとする若者がめっきり減った」ことなどが理由という。
 なるほどこうやって暴力団は衰弱していくのか、などと思いつつ、ふと考えた人も少なくなかったのではないか。自分たちはどうなんだろう、と。
 国立社会保障・人口問題研究所の統計に当たってみる。その2015年の調査データによると、日本の総人口の中で50歳以上の割合は45.7%。実は一般社会が暴力団よりずっと先に進んでいる。
記事を一瞬でも、ひとごとのように読んだとすれば、それは自分たちの社会について幻想があるからかもしれない。もう少し若いはずだという根拠のない思い込みに基づいた自画像。
◎       ◎       ◎ 
社会がどれくらい老いているかを計る手がかりとして「中位数年齢」がある。人々を年齢順に並べたとき、ちょうどまん中にいる人の年齢を指す。その前と後で人口がちょうど半分に分かれる。
同研究所によると、今の日本は推計で47.5歳。近年のデータでほかの主要国を見ると、欧州諸国が高く、ドイツが45.8歳、フランスが41.3歳。そのほかの多くの国は40歳前後だ。アジアでは、韓国が40.7歳で日本に次ぐ高齢国だが、ほかは30代か20代。
日本は突出している。
日本自身の変化をたどってみると、戦前から1970年代前半くらいまでは20代だったことがわかる。前の東京五輪のころは20代後半、大阪万博があった70年は29.1歳、高度経済成長期もほぼ20代だ。バブル期は30代のころにあたる。
老いは止まらない。将来予測だと次の東京五輪の3年後に50歳に到達する。日本人の半分が50歳以上になる。
社会の土台である人口構成で、日本はとうてい「ふつうの国」ではない。
◎        ◎        ◎   
 だが、国家運営を担う政治家たちが「ふつうの国」に戻そうとしているようにも見えない。
「地方創生や1億総活躍を言っても加速度的に人口が減る中では意味がない」と話すのは、日本国際交流センター執行理事の毛受(めんじゅ)敏浩さん。近著「限界国家」で、積極的な移民受け入れ政策にかじを切るべきだと主張している。「同じように考える政治家は多いはず。カミングアウトしてほしい」ともどかしそうだ。
 どんな人をどれくらい、どうやって受け入れるかを決めるのが移民政策。だが、門戸を開くとあやしげな外国人がどっと入ってきて社会に混乱をもたらすといったイメージが付きまとう。だから政治家は手を着けるのを避け続けた。
 もう10年以上前に、毛受さんは欧州で移民政策の専門家から「日本はダチョウのようだ」といわれた。迫りくる人口動態の危機を、砂の中に頭を埋めて、ただ見ないようにしている。「閉鎖的な国が最後にどうなるか、それを示す反面教師みたいに海外から見られています」
 今から人口減を止めるのはほとんど不可能だ。しかし、すさまじい高齢化をすこしでも緩和するためと思えば若い移民の受け入れには意味がある。
 実は日本に定住する外国人、つまり移民はすでにかなりの数に上る。議場実習生などといった別の名前で呼ばれている。これからも増えそうだ。しかし、「正門を閉ざして裏から入れ続ける方がずっとよくない。移民政策がないと移民問題が起きるのです」。
 毛受さんは、移民政策は日本の「切り札」と見る。ほかの国と違い、温存していた切り札。例えば新しい元号とともにこれを切れば、国民の意識も世界の見る目も変わり、閉塞感も打開できる――。
 そのためにも、まず老いた自画像と真正面から向き合わなければならない。」朝日新聞2017年7月16日朝刊3面、総合欄。

 1980年代の終わりに、外国人労働者を導入するかどうかを巡って、日本国内でちょっと議論になった。積極導入論者はさまざまな事例や理論を述べたが、結局単一民族ナショナリズムの純血主義にもとづく反対論に負けて、表向き鎖国政策を維持しながら、技術研修生制度や日系人労働者受け入れといったまやかしの一時導入策をすすめた。その結果が、現在の玉虫色の外国人移住政策であり、差別的なグローバリズムだと思う。
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