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女優列伝Ⅶ 浦辺粂子1 「モダン」への視線

2017-08-10 23:43:23 | 日記
A.女優列伝Ⅶ 浦辺粂子1
 舞台や映画の女優になろうなんて考える女の子は、今はたくさんいるだろうが、大正時代にそんなことを考えたら、ほとんどそんな無茶なことを考えさせただけでも親は何してたんだ、と世間一般から強く非難されただろう。上流階級のお嬢様ならともかく、普通の庶民の娘が女優なんかになるとしたら、街で声を掛けられてついていく低能か、食い詰めてなんでもいいから仕事がほしい、というような苦しい状況にある娘で、いずれにしてもそれは、まともな親の保護下にはない、娼妓下女同様の不幸な少女だと見做されていた。
 第一この時代、映画はまだ無声映画が始まったばかりで女役は女形がやっていた時代だし、舞台といっても旅回りの田舎芝居か大衆向け芸能者の手伝いぐらいしか考えられなかったはずだ。でも、伊豆半島の寺に生まれた少女、浦部粂子さんは、そのような世間の常識を、ある意味では知らないで育ち、しかも田舎にいたのに、東京の最新文化を浴びて憧れて育って女優になると決めて、大正8年数えで16歳のとき奇術団に入ろうと家出。それがこの人の稀な経歴の始まりだった。それには東京育ちの夢見がちな母が大きく影響していたという。

「あたしは、伊豆半島の下田にある。泰平寺というお寺に、明治三十五年十月五日に生まれました。西暦でいうと一九〇二年、日露戦争のちょうど二年前です。あたしが将来映画女優になるなどということは、その時の父や母も、もちろん赤ん坊のあたしだって知る由もないことですが、日本の国にはすでに、映画というものが明治二十九年に上陸していました。ですから、映画の黎明期といえましょうか。
 父は臨済宗建長寺派・長松山泰平寺の住職、母は士族の娘でしたが、父とは再婚です。先立たれた夫との間にできた一人娘を婚家先に置いて、父のところに嫁いで来ました。その異父姉は十六のときに死んでいるので、あたしはほとんど覚えていません。
 母の方が十三も年下の父を見染めたんだそうです。下田にある婆やの家をたずねて、父に道を聞いたのが縁で、「あのきれいなお坊さんのところに、どうしてもお嫁にいきたい」と。
 こういう強引なところ、あたしは母の血を継いでいると思いますねェ。十三も年上の後家さん、ふつうだったら言えません。
 士族の娘だというので、父の家では許したそうです。父が二十五、母が三十八のとき、あたしは生まれました。ですから後はもう、できませんよね。それであたし一人だけ。
 いつもニコニコして、誰にでもなついた赤ん坊だったそうです。お寺ですから、檀家の人がかわいがってくれて、「いらっしゃい」と言われると誰にでもくっついて行っちゃう、あんまりみんながかわいがるんで、「たまには私に抱かせてください」って母が言ってたの、覚えてます。
 少し大きくなると、父に連れられて、よく他のお寺に行きました。どこへ行っても「この子は利口だ」とか「いい子だ」とか、随分ほめられました。母が礼儀にうるさくて、人様の前に行ったら「こんにちは」って言いなさいって教えこまれていたので、その通りにしたんですよ。ふつうの田舎の子は、そういうことをしないですから。父は田舎者なので、行儀は母に全部、仕込まれました。
 今でも、目をつむると、お寺の裏の景色が浮かんできます。田んぼがあって、その向こうに小さい山が見えて、山裾を松林がとり囲んでいました。その松の木も、最近みんな虫にやられて今は一本しか残っていないそうですが……。」浦辺粂子『映画道中無我夢中 浦辺粂子の女優一代記』河出書房新社、1985.pp.9-10.

 東京から下田を訪れて、道で出会ったイケメン坊主に一目惚れで結婚しちゃうというのも、常識ではありえない行動で、その母から生まれたくめ子さんも、子どもの頃から周りの子どもとは別格の特別視された一人っ子で、先頭に立って男の子を率いる女子だった。

「勉強はできませんでしたけれど、あたしの芝居好きは子供の時分からで、勉強の時間に芝居に出てくるお姫様の絵なんか描いて、先生に怒られたり。
 というのも、母が大の芝居好きで。東京生まれ、東京育ちの母は、娘の頃からずっと芝居を見ていたんでしょうね。下田の父のところに来てからも、母の姉が明治座に売店を出していたので、演芸雑誌だの、絵番付――今のプログラムですね、そういうものを送ってきてくれましたから、知らず知らずのうちに影響されていたんだと思います。母からも、ひいきの役者の話や、狂言の筋書きなんかを始終聞かされていましたし。
 下田にいた自分ですから、小学校にあがる前のことです。あたし一度、芝居に出たことがあるんですよ。下田に芝居小屋があって、旅回りの芝居がかかるんですが、そのとき、一座の子役が病気になっちゃって。母やあたしの芝居好きが有名だったらしくて、頼みに来たんです。『伽羅先代萩』をやっている時で、あたしは鶴喜代の代役。同じ子役でも千松の方は毒飲んだり殺されたり、芝居が難しいけど、鶴喜代はただ座っていて「乳母、御飯(まま)はまだかや」って言うだけでいいんだから出てくれって言われて、喜んで出ました。そうしたら「うまい」ってみんなに言われて、得意になったこと、覚えています。
 見高入谷に来てからは、下田よりもっと田舎ですから、芝居小屋もなんにもない。それで、その時分流行っていた連鎖劇というのが稲取の海岸あたりに、ときどきかかるのを見に行きました。暗くなってから、村の人たちといっしょにでかけました。山を越えて行くので、背負い子におぶさって。活動写真を野外で映すわけですから、昼間はできないんです。
 連鎖劇というのは、映画と芝居を混ぜたようなもの、明治末から大正初めのほんとに短い間しかなかったものですから、連鎖劇を見た人は少ないと思います。最初、スクリーンに映画を映します。弁士の説明がついて。それからスクリーンに幕がおりて、パッと明るくなると、今出ていた役者がそこにいて、今度はさっきの続きを生の芝居で見せる、その繰り返しです。
 今思うと、スクリーンに雨は降ってるし、映写機の音だか何だか、ジャージャー、ジャージャーってひどいものでしたが、それでも面白いから見ちゃう。『己が罪』とか、『金色夜叉』とか。
  (中略)
 あたしは小学五年生になっていたでしょうか。下田、見高入谷と北上してきて、今度の寺は伊豆半島のつけ根のあたり、今の沼津市岡宮です。沼津に越してきて、いちばん喜んだのは母でした。東海道線の沼津駅が近くですから、汽車に乗りさえすれば東京に出られるわけです。下田に嫁に来てからというもの、ちゃんとした芝居を見るのをあきらめていた母が、週末にあたしを連れて芝居見物に上京するようになりました。とはいっても、丹那トンネルができる前ですから、東京までたっぷり五時間はかかります。御殿場を通って、ポッポッと煙の出る汽車で。
 土曜の朝発って、東京に着くとすぐ伯母が売店を出している明治座で歌舞伎を観て、その晩は下谷西町にある伯母の家に泊まります。翌る日曜は本郷座で新派を観て、夕方の記者に乗ると沼津に就くのはもう夜更け。お馴染みの人力車に乗って家に帰りました。
 父は下田のような田舎に来た母をかわいそうに思っていたらしく、沼津に来てからは、母の芝居見物は自由にさせていたみたいです。
 父と母はとても仲が良くて、二人が喧嘩してるのを見たことがありません。父は、法事や葬式から帰っても「くめ子、帰ったよ」って一度も言ったことがない、必ず母に「おはな、帰ったぞ」と言って、おみやげを母に渡すんです。
 父は大変な美男子で、歌舞伎の団十郎の家から養子にもらいにきたのを、おばあちゃんが「役者のとこなんかやらない」って断ったそうです。色白の彫りの深い顔立ちで、背は高いし、母が一目惚れしたのも肯けました。でも、あたしは父に似なかったみたいですね。」浦辺粂子『映画道中無我夢中 浦辺粂子の女優一代記』河出書房新社、1985.pp.9-10. 

 自分がいかなる存在か、周囲の子どもとは違った特別な人間だと素直に信じて疑わない少女は、親に言われるままに女学校に行くふりをして、誰がなんといおうと、自分の望む生き方を追求する。
 ちょっとここで、今までぼくのブログに登場した女優の年齢を確認すると、生まれた順に
浦辺粂子さん 1902(明治35)年 10月5日 - 1989年 10月26日(満87歳没) 
原泉さん   1905(明治38)年 2月11日 - 1989年 5月21日(満84歳没)
原ひさ子さん 1909 (明治42) 年 8月6日 ― 2005年 12月4日(満96歳没)
北林谷栄さん 1911(明治44)年 5月21日 ‐ 2010年 4月27日(満98歳没)
賀原夏子さん 1921(大正10)年 1月3日 - 1991年 2月20日(満70歳没)
千石規子さん 1922(大正11)年 4月29日 - 2012年12月27日(満90歳没)
菅井きんさん 1926(大正15/昭和元)年2月28日(91歳)

 となって、浦辺さんがやはり一番年上である。それにしてもみなさん長命な上に、最後まで活躍されて、ただ者ではないですな。。浦辺さん以外はいわゆる「新劇」の訓練を経て、女優になっているが、浦辺さんは浅草や関西の演芸から、映画の世界、それも草創期の無声映画からずっと映画に出続けているという、日本映画史の文化遺産のような人であり、もっぱら老け役おばあさんの姿が記憶されている人だが、若い時代は美人女優でブロマイドも出ていた。それだけで終わった人がたくさんいたが、浦辺さんの真価は、中年以降に花開くのである。




B.近代の思考・機能主義
 三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか ―問題史的考察』岩波新書は、4つの角度から日本の近代史を検証するという構成になっていて、4つとは、政党政治、資本主義、植民地帝国、そして天皇制である。それぞれ、従来のぼくたちが常識として知っている日本史の通説とはやや違う指摘が含まれている。なかでも、天皇の位置づけを大日本帝国憲法の起草段階でドイツに行って憲法を学んだ伊藤博文に即して述べている部分は、興味深い。

「幕末の開国に始まる日本の近代は、当時すでにヨーロッパにおいて確立されていた国民的生産力の発展の度合を基準とする価値観、世界資本主義を受け入れることを前提として形成されたからです。これは歴史家E・J・ホブズボームが描いた1848年以降の世界的な「資本の時代」の価値観です。すでに序章で引照したマルクスの『資本論』第一版(1867年)の序文の中の命題、すなわち一九世紀後半の世界においては産業上の先進国が後進国の将来のイメージを示しているという命題は、当時の日本にとって自明でした。日本は、当時の世界の中心であったヨーロッパ先進国、とりわけ英国でつくられた後進国の将来像に従って、近代の歴史形成に着手したのです。そのモデルがヨーロッパ先進国でした。
 しかし当時の日本にとって、将来の到達すべき目標は自明でしたが、それに到達する過程や方法は不明であり、未知でした。ヨーロッパというモデルはあったものの、ヨーロッパ化のモデルはなかったのです。もし日本の近代になんらかの歴史的独創性を認めるとすれば、少なくとも東アジアにおいては、それが前例のないヨーロッパ化の実験であったことにあるというべきでしょう。
 ところがヨーロッパそのものは反復不可能な一回的な歴史的実体です。日本はそれをそのまま再形成することはできません。日本は自らをヨーロッパ化する実験に先立って、それを可能ウにするようなヨーロッパのイメージを持たなければなりませんでした。それはヨーロッパの歴史的実体性をできるだけ捨象した操作可能なものでなければならなかったのです。日本のヨーロッパ化の先導者たちは、歴史的実体としてのヨーロッパを導入可能な諸機能の体系(システム)とみなしました。そして制度や技術や機械その他の商品を通して、一九世紀後半のヨーロッパ先進国が備えていた個々の機能を導入し、それを日本において作動させることによって日本のヨーロッパ化を図ろうとしたのです。
 ところが、このような機能的ヨーロッパ化を図るには、何よりも日本自身が機能の体系として再組織されなければなりませんでした。そしてその前提として、機能的ヨーロッパ化を推進する国民的主体に対して機能主義的思考様式の確立が要請されました。福沢諭吉が『文明論之概略』において「物の尊きに非ず、其働きの尊きなり」と説いたのは、まさに機能主義的思考様式の重要性を強調したものでした。
 福沢と並んで、明治期の自由主義的資本主義の最大の先導者であった田口卯吉は、その文筆活動のみならず、出版活動、実業活動、政治活動にまで及ぶ多彩な百科全書家的活動を通して、身をもって機能主義的思考様式の何たるかを示した人物です。田口の生涯は一身の利害よりも、自ら選んだ公共的目的への献身を優先する機能的合理主義者の軌跡でした。田口は個人主義者でしたが、自己実現を追求するというよりも、自己を機能化し、役割化して生きることを選んだように思います。」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか -問題史的考察』岩波新書、2017.pp.206-208.

 三谷氏が「機能主義的」思考と呼ぶものは、いわゆる「近代」の合理的・普遍的な知識・技術・思想といったものと考えていいだろうが、それは歴史的一回性をもった西欧の現実すべてではなくて、そこから抽象され、理念化された「近代」であって、福澤、田口をはじめ、長谷川如是閑、石橋湛山といったリベラルな流れにある人々を、機能主義者と考えるわけだ。

「以上のような日本の近代化を推進した機能主義的思考様式は、日中戦争以後の昭和戦前期の統制経済論にも顕著に見られます。この時期の代表的な経済ジャーナリストであり、近衛文麿を中心とする「新体制」運動をイデオロギーや政策の面で支えた昭和研究会のメンバーであった笠信太郎の著書『日本経済の再編成』はその一例です。それは計画経済を主軸とする「経済新体制」の枠組みを示したものでした。笠はその経済分析のための主要な道具をマルクス経済学から引き出しましたが、それを1939(昭和14)年当時の必要に応ずる日本経済の「再編成」のために駆使したのです。国家の死滅を予定するマルクス主義の世界観および哲学を母体とする経済学を、逆に国家目的に奉仕させようとしたわけです。当時日本ではマルクス経済学は脱イデオロギー化され、大国ソ連の経済建設の試練を経た最も実用的な計画経済の理論とみなされていたといえます。日本近代に特有の学問に対する機能主義的で実用主義的な態度の一つの典型をそこに見ることができるのです。
 森鷗外が一連の「史伝」で描いた江戸時代末期の学者たちの学問は、明治期の機能主義的で実用主義的な学問に対する反対命題でした。鷗外が「史伝」の著述にあたって、そのことを明確に意識していたことは明らかです。
 ヨーロッパに見合う機能の体系として構想され、実現されていった日本近代の特徴を、ポピュラーな歴史小説を通して高度成長期以降の日本人の歴史認識に影響を及ぼした司馬遼太郎は、歴史上のさまざまな組織や人物の中に認めています。新選組は斬新な組織感覚によって形成された先駆的な機能集団としてとらえられましたし、大村益次郎は自らを徹底的に機能化した人物として描かれました。
しかし歴史的実体としてのヨーロッパは、いうまでもなく機能の体系としてとらえきれるものではありません。そのようなヨーロッパのとらえ方は、ヨーロッパ像を近代に偏った一面的なものにします。この点を衝いたのが、明治期においては例外的に深い欧米体験を持った永井荷風でした。荷風は1909(明治42)年に発表された「新帰朝者日記」の中で「新帰朝者」に次のようにいわせています。

僕の見た処西洋の社会と云ふものは何処から何処まで悉く近代的ではない。近代的などんな事をしても冒す事の出来ない部分が如何なるものにもチャンと残って居る。つまり西洋と云ふ処は非常に昔臭い国だ。歴史臭い国だ。

ヨーロッパには「近代」に還元されえない本質的なものがあるという荷風の洞察は、後年文芸評論家中村光夫に深い感銘を与えました。中村もまた、1942(昭和17)年10月号の『文学界』掲載の大座談会「近代の超克」のために寄稿した「「近代」への疑惑」という論文の中で、「僕等はなぜヨーロッパについてその古さも理解せず、その所謂新しさを追ふ狂態を繰り返して来たのであるか。今日僕等の常識化したヨーロッパ観に、何故こういふ重大な遠近法の誤差が生じたのであらうか」という疑問を投げかけています。そして、その原因を「機械とこれを運用するに適した社会」としてのヨーロッパのみに着目してきた日本の近代化そのものに帰しているのです。
アジア・太平洋戦争の緒戦における日本の軍事的優勢、特に東南アジアにおけるヨーロッパ植民地の奪取に伴って、日本の知識人の間にも、「近代の超克」という文言に象徴されるような明治来の国家の共同概念としての「近代」概念に対する疑念や否定論が台頭し始めました。それと同時に、日本の「近代」を方向づけた非歴史的な機能主義的「ヨーロッパ」概念に対する自省の徴候も見え始めたのでした。当時の中村光夫の所論はその一例でしょう。中村は、第二次世界大戦の勃発とヨーロッパの崩壊を、ナチ・ドイツの軍事力によって脅かされるフランス現地において、身をもって体験したのでした。
このような時代状況の中で、幕藩体制イデオロギーの内部から徂徠学の発展や国学を媒介として事実上近代を促進する契機が自生していった過程を追跡した論文を公表した丸山眞男は、「近代の超克」の呼号に反発し、あくまで「近代」をテーマとすることを変えませんでした。戦後この論文を含む著書が改めて刊行された際に、丸山は当時を顧みて、「近代の「超克」や「否定」が声高く叫ばれたなかで、明治維新の近代的側面、ひいては徳川社会における近代的要素の成熟に着目することは私だけでなく、およそファシズム的歴史学に対する強い抵抗感を意識した人々にとっていわば必死の拠点であったことも否定できぬ事実である」と述べ、「私が徳川思想史と取り組んだ一つの超学問的動機もここにあった」と説明しています。
丸山の場合、「近代」概念は機能主義的思考様式によって基礎づけられた福沢イデオロギーによって補強され、戦争下の日本の現実を批判する理念的根拠となりました。それは戦後においても、1946年5月の『世界』に発表された論文「超国家主義の論理と心理」に始まる丸山の思想活動を貫いたといってよいでしょう。」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか -問題史的考察』岩波新書、2017.pp.209-213.

機能主義的西洋近代への対抗軸として、鷗外、荷風、中村光夫に触れ、丸山眞男までくるところで、理念化された「西洋近代」への態度は、それぞれ多少の違いはあるにせよ、日本がアジアを脱するとともに、もう一度日本固有のもの、あるいは明治以前のものを捉えなおす反省期に入っていたということになる。
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