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音の記憶Ⅷ セロニアス・モンク2  アメリカよ お前もか

2017-06-09 13:50:03 | 日記
 A.音の記憶Ⅷ セロニアス・モンク2
 ジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクThelonious Sphere Monk(1917-1982)の少年時代がどのようなものだったかは、ほとんどあいまいだという。ノースカロライナ州ロッキーマウントに生まれ、生後間もなく、モンクの家族はニューヨークへ移り住んだ。6歳の時にピアノの演奏を始め、多少の正式なレッスンを受けてはいたが、本質的には独学。10代の頃にはある福音派の伝道者とともにしばらく各地を回り、教会のオルガンを弾いていたようだ。10代の末頃に、モンクはジャズ演奏の仕事を始めた。1941年ごろ、ニューヨークのクラブ「ミントンズMinton’s」で、クラブバンドのピアニストとして雇われていた。当時の演奏は「ハード・スウィンギング」のようなスタイルで、アート・テイタムに近かったという。
 1947年にネリー・スミスと結婚し、同年にモンクのバンド・リーダーとして初の録音が出た。50年代と60年代を通して、モンクは各地を巡業し何枚も録音版を残したが、1971年11月の録音を最後に、表舞台から姿を消した。幾つかの情報源によれば、モンクは双極性障害(躁鬱病)に苦しんでいたという。1982年に脳梗塞で亡くなり、ニューヨーク州 ハーツデイル(Hartsdale) にある、ファーンクリフ墓地(Ferncliff Cemetery)に埋葬された(おもにWikipediaにもとづく情報)。
 モンクの個人史的なことには、ぼくはあまり興味はない。モダン・ジャズ最盛期の名人巨人のなかでも、寡黙で自分のことしか考えていない頑なな人物のイメージがあるだけだ。しかし、既成の曲のメロディを借用してどれだけいじくれるかの腕を競うのと違って、モンクの自作曲のオリジナリティとインプロヴィゼイションの天才的なひらめきは、とても真似できるものではないと心底思う。いくつかの曲について、その音楽の構造的技巧的な点について、プロの解説はこんなふうになっていた。

「Little Rootie Tootie:イントロのコードはあえてコード・ネームをつけるならこうなるが、アヴェイラブル・ノート・スケールを基本に考える一般的な理論では#9thと11thの同居は不可能(この音を併せ持つスケールは原則としてない)。つまりコードというよりは“音の塊”と考え、あえてコード付けなどしない方が良いかもしれない。Aはメロディとベースはユニゾンになっており、コードの特定ができない。A全体を“A♭7”と解釈すれば良いだろう。しかしインプロヴィゼイション・パートではA のような 典型的なジャズのコード進行になっている。Bのコード進行でアドリブをするのか結構難しい。要はアドリブの基本であるⅡm7-V7-Ⅰの連続なのだが、ほとんど1小節毎にキーが変わるという複雑ぶり。普段から全キーでⅡm7-V7-Ⅰのアドリブ練習をしておく必要があるだろう。A A’と同じコード進行だが、右手のA♭ブルー・ノート・スケール的フレーズに合わせてA♭7の1コード・スタイルにアレンジしてある。

Bye-Ya:レコードはアフロ・キューバン・リズム的なサウンドだが、ソロ・ピアノでこの雰囲気を出すのはなかなか大変。普通の4ビート・フィーリングでプレイしてかまわないだろう。モンクの曲には主調を判定しにくいものがよくある。一般的な思考回路からは生れ得ない複雑な転調が錯覚を与えてそうなるわけだが、この曲もそう。主調はE♭として記譜したが、E♭のコードが出てくるのはA A’ Cの最後の小節のみ。A1~6小節だけを見れば完全にA♭のキーで実に不可解。だからモンクの曲はおもしろい。B1小節目の6連符はこのテンポで片手でプレイするのは困難だ。カッコ内を省略し3連符として弾けば良いだろう。なお、レコードではベーシストのG.マップはコード進行を把握していないらしく、テーマ以外は最後までA A’ Cの2、4小節目A♭をE♭で弾いている。

Trinkle Tinkle :ピアニストとしてのモンク論を語るとき以前はよく「テクニックがない」「むしろ下手である」という説が俎上に載せられたが、この演奏を聴けばそれが無意味な論議であることが明白になるだろう。訥々としたタッチのユーモラスな演奏は、この曲で見せる速弾きに証明される確実なテクニックに実は支えられていたのだ。イントロの速弾きはモンクはどうやっているかわからないが、片手でうまく弾けない場合は、D音を左手に任せるといい。あるいは手を少し交差させて、G♭音―G音―A♭音―A音―B♭音・・・とトップ・ノートを左手で弾く手もある。テーマ部A B Dの7~8小節目はレコードではドラム・フィルである。ソロ・ピアノでプレイする場合、ピアノのボディをドラムよろしく叩いてみるのも面白いかも。それが嫌なら2小節を削除し、A B Dは6小節として(インプロヴィゼイション・パートは譜面通りで)プレイしても変ではない。いずれにしても何もせず2小節の空白を作るのはいただけない。

Round Midnight:言わずと知れた名曲中の名曲で、ジャズ・ナンバーの中で最もカバーの多い曲とも言われている。その名曲を作曲者モンクはかなり変態的な弾き方を混ぜながらプレイしているフシがある。12小節目がそれだが、2泊目と4拍目、左手が右手を飛び越えて高音部を打鍵しているのだ。クラシックではたまにある奏法だが、ジャズでは極めて稀である。右手で譜面の左手パート、左手で右手パートを弾く(こうすれば腕は交差しないでできる)ことも可能だが、音の流れから見てこの特殊な双方の方が自然だろう。全体的な注意点はノリのメリハリ。テーマは1小節をゆっくり“1,2,3,4”という具合に4拍で弾くが、インプロヴィゼイション・パートからは“1と2と3と4と1と2と3と4と”と2倍の速さで8拍にリズムをとる。そしてラスト・テーマは再び4拍に戻る。バラード・プレイではよくやる方法だ。

Blue Monk:モンクのオリジナル曲にはブルース形式のものも多いが、中でも最もポピュラーなのがこの曲。テーマは2回繰り返されるが、1回目と2回目とでメロディのハモリの音程が違う。前者が3度、後者が6度音程で、特にThema 1,2ともに、3小節目の終わりから4小節目にかけてのフレーズのニュアンスは、記譜不可能なタイミングでプレイされる。譜面では8分音符だがむしろ4分音符の3連的フィーリングか? とにかく譜面は音使いを確認するにとどめ、リズムの感じはレコードをよく聴いてつかんでもらいたい。1st Improvisationの1~2小節目は、テーマではB♭7-E♭7でプレイされていたが、それぞれにFm7,B♭m7を挟み込んで雰囲気を変えている。またB♭のブルースでありながらB♭△7も平然と使われるなど、コード・チェンジは全く恣意的だ。」佐藤史郎・久隆信「曲解説」(ジャズ・ピアノ・コレクション『セロニアス・モンク』シンコー・ミュージック・エンタテイメント、2016. 

 音楽でも絵画でも演劇でも、人の作ったものを坐って鑑賞することと、自分でそれを実際にやってみる、なぞってみるのとでは、理解に雲泥の差があることは言うまでもない。一回切りの生演奏をレコードは記録しているので、それを譜面に起こして分析することは可能だ。しかし、モンクの演奏はときに記譜が不可能な箇所があり、作曲の常識を無視して展開する複雑さをもっている。たとえばRound Midnightのなかの左手が右手を飛び越えて高音を弾いているところ。ロマン派のピアノ曲では珍しくない奏法だが、ジャズではまずない。あるいは、Bye-Yaの主調はE♭とするとしても、途中まではA♭ともいえる。普通の転調は始まりの音が続いた後に、気分を変えて別の調に移って最後に戻る、というやり方だが、モンクのは調が混ざるというか転々とする。調性の否定とまでは行かないが、ひとつの音が曲全体を支配する調性の原理などど~でもいい、という作り方になっている。これはただ漫然と曲を聴いているだけでは、ただごろごろ不協和で半音階だらけの混沌とした音が並ぶとしか思わないだろう。でも、譜面で見るとなるほどと思うのである。
 ただし、モンクがこういう曲を作れたのは、いわゆる近代的音楽理論や作曲法を学んでいたからではなく、それを学ばなかったからだと言えるだろうか?正規の音楽教育を受け、ジャズの基礎テクニックを身につけた上で、新しい奏法や新しい解釈を付け加えて評価された人の作品は、あくまでどこを意図的に革新し、どこがこれまでの曲と違うのかが分かるようになっている。でも、モンクはたぶんそういう順序で作曲していたのではなく、鍵盤の上であれこれひたすらいじっているうちに、偶然出現する音のきらめきを曲に留めただけではないのだろうか、と思える。ジャズはそもそもそういう音楽なのだともいえるが、モンクの場合、コード進行のお約束、リズムのお約束、アドリブのお約束といったモードを、いっけんそれに従うかに見せて、どんどん崩して違うものにしてしまう。そういうことを黙々とやってしまった人なんだと思う。



B.敵への憎悪からすべてが発想される?
 今、BBCニュースでイギリス総選挙で与党・保守党の過半数割れが確実だという。メイ首相は責任問題も問われるだろうという。世界の混迷はさらに深まるようだが、自己の足場を確保しようと総選挙を繰り上げた保守党の思惑は崩れたわけだ。同じような意図で総選挙を繰り上げて、与党3分の2を確保した日本とは反対の結果だった。
 それはともかく、トランプ政権がそもそもの成立基盤になったアメリカ社会の中の不満を募らせた右派、ナショナリズムに反応する保守的動労者や農民は、地球温暖化対策のためのパリ協定離脱を支持するとしても、それがアメリカにとってプラスになるのか、きわめて怪しい、むしろ今後に大きなリスクを抱える選択だ、という論。

「根拠なきパリ協定離脱:リベラル派への敵意がすべて 〔クルーグマン・コラム〕
 トランプ氏が気候変動の抑制という世界の人々の望みを打ち砕こうと全力を注ぐいま、一つはっきりさせておきたい。これは米国の国益に資することは何の関係もない。米国経済はパリ協定の下でうまく機能しただろう。これはナショナリズムの問題ではなく、全くの悪意によるものだ。
 経済についてみてみよう。現時点で、低排出経済というのがどんなものになるかは、おおよその見当がついている。細かい点では専門家の間で意見の相違はあるだろうが、大筋の説明は難しくない。
 それは明らかに、電気によって成り立つ経済(電気指導者や電熱)になり、内燃機関は珍しくなるだろう。そして、電気の大半は、汚染をまき散らさないエネルギー源からもたらされるだろう。風力や太陽だ。ああ、それにおそらく原子力も。
 もちろん、ときには電力が必要な時に風が吹かなかったり、日が差さなかったりすることもある。しかし、対処法はいくつもある。需要のある場所に電力を送れる配電網や、さまざまな形の電力貯蔵(電池だけでなく、揚水式電気貯蔵なども考えられる)。変動する電気料金の設定で、電力不足時には使用を抑え、不足していないときに使用を増やすよう消費者に促すやり方もある。それでも不釣り合いが残る場合のため、需要の急増に対応する能力を(おそらく排出量が比較的少ない天然ガスの火力発電で)持っておくこともできる。
 エネルギー転換を実現した経済における生活は、どんなものか? それは今の経済下の生活とほとんど違わないだろう。
 依然として車を運転し、冬には暖房、夏には冷房をいれた家に住み、ビデオを見ているだろう。風力タービンやソーラーパネルがそこかしこにあるだろうが、いま私たちが従来型の発電所の煙突を気にとめないのと同じように、ほとんどの人はそうした設備を気にかけないだろう。
◎        ◎        ◎ 
 この経済では、エネルギーはもっと高価なのではないか? おそらくそうなるが、その幅は大きくはないだろう。太陽光と風力発電にかかるコストは技術の進歩で急激に下がっている。エネルギー貯蔵でも同様のことが起りつつあるように見える。
 一方、そうしたことを埋め合わせる利点もあるだろう。特に、大気汚染による健康への悪影響は、大幅に軽減されるだろう。だから、「破局的な気候変動から文明を守る」という点を考慮しなくても、保健医療コストの低下だけで、エネルギー転換のコストを埋め合わせることがありえるのだ。
 肝心なのは、パリ協定で想定される形で気候変動に取り組むことは、かつては工学的、経済的に難しいと思われていたが、今日ではかなり容易にみえる点だ。私たちは、必要な技術をほとんどすべて手にし、残された技術も開発できると十分に確信できる。低排出経済への移行、つまり化石燃料の段階的な廃止に時間がかかるのは間違いない。だが、道筋が明確であるならば、時間がかかっても構わないのだ。
◎         ◎        ◎ 
 それならばなぜ、右派のあまりにも多くの人たちは、気候変動対策を阻止する決意をし、新たなエネルギー源における発展をだいなしにしようとさえしているのか?
 彼らが気候予測に特有の不確実性を誠実に心配しているなんて言わないでほしい。長期的政策の選択はすべて、不確実な未来を前に行わなければならない(当たり前だろ)。気候変動については、えられうる最大限の科学的な共通認識がある。そしてこの件では、不確実性は、行動を起こす理由を確実に強固にする。なぜなら、対策を間違った場合の損害の大きさはとても釣り合わないからだ。取り組みをしすぎたら、お金をいくぶん無駄にする。しかし取り組みが足りなければ、文明を破滅させるのだ。
 炭鉱労働者のためだ、などと言わないでほしい。炭鉱労働者のことを本当に気にかけるなら、彼らの医療給付や休業給付、年金給付を守る運動に加わり、炭鉱労働に代わる雇用機会を提供しようと取り組んでいるはずだ。環境に対して無責任であることで、露天炭鉱や山頂部の爆破による採鉱で失われた雇用がなぜか取り戻せる、とよそおう主張はしないはずだ。
 これは炭鉱労働の問題ではないが、右派の反環境主義には、石炭産業の利益を守る面がある。2016年の石炭産業の政治献金は、97%が共和党に対するものだった。
 だが、前述したように、気候変動対策に反対する闘いは、ほとんど、ただの悪意に駆り立てられたのものだ。
 トランプ政権の幹部によるオピニオン記事をはじめ、近ごろの右派の議論に少しでも注意してみるといい。そうすれば、一部の問題には集団で協力して対処することが必要だという考え全てに対して、深い敵意が存在することに気づくだろう。
 それ以上に、今日の右派の多くは、具体的な課題についてよりも、何よりもリベラル派への敵意に駆られているようにみえる。リベラル派が嫌うものは、よいものだ。加えて、共和党支持基盤の反知性主義にとっては、科学的な共通認識はプラス点でなくマイナス点であり、何であれオバマ前大統領と関係するものを突き崩すことにはボーナスポイントが加算される。
 そしてもし、これらすべてがあまりにも狭量で悪意に満ちすぎていて、重要な政策決定の根拠には聞こえないのなら、ホワイトハウスのあるじの性格を考えてみるといい。これだけ言えば十分だろう? (©2017 THE NEW YORK TIMES)(NYタイムズ、6月2日付 抄訳)」朝日新聞2017年6月9日朝刊、15面オピニオン欄。

 クルーグマンの論の最後が気になる。アメリカの中の右派の議論の底流に、ある種の問答無用の憎悪や偏見があるという話。そうか、アメリカも日本の後を追っているのか、いや中身が全然違うのに、パターンと思考の単純さだけは同じだな。
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