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「大東亜戦争」と「シナ事変」は別の戦争か? 恋愛は面倒くさいか?

2017-12-12 19:25:31 | 日記
A.二つの戦争論
 ぼくたちは、「戦後」という言葉や、「戦前」という言葉をふつうに使ってきたが、日本が昭和の前半に大戦争をやって負けたことはもちろん教わった。その「戦争」は真珠湾攻撃に始まって広島・長崎の原爆投下で終わった、アメリカ(ほかにイギリスやオランダなども敵としたが)との戦争のことだと思っている。日本の主要都市はみな爆撃され、こてんぱんに負けて占領された大変な時代だったことも親から聞いた。でも、その対米英戦争を始める前に、中国大陸でやっていた日中戦争のことはあまり注意が向かない。日本のなかにいた人たちは、満州や中国大陸で日本がやっていた戦争を「戦争」と呼んでいなかった。国家同士が宣戦布告するのが「戦争」で、中国との戦争は日本の言うことを聞かずトラブルを起こす蒋介石の政権を懲らしめる「事変」だということになっていたからだ。
 でもこの中国との戦争と太平洋での対米戦争は、歴史的経過も起った理由も、つながっていた。中国との戦争が泥沼の長期戦でらちがあかず、日本は国際的に孤立して、裏から蒋介石を応援している米英白人を叩かないと、日本の国家目標が危うくなると追い詰められてやってしまったのが太平洋の戦争、それを日本政府は「大東亜戦争」と名付けていた。それにはある歴史観、より大げさに言えば明治維新や征韓論以来の、欧米列強ヨーロッパ文明への対抗という思想と、朝鮮や中国への蔑視があり、それを西洋近代文明の敷いた道を日本も歩んで勝つのだと考える人たちと、白人支配のアジアを日本が先頭に立って解放すると考える人たちがいた。でもこのアジア派の思想は、どうしても後付け「自己正当化」の臭いがぷんぷんする。

「竹内(竹内好:引用者注)は対中国侵略戦争と対帝国主義戦争という「大東亜戦争」の二重性を、日本の「東亜における指導権の要求」と「欧米に対する世界制覇の目標」という相矛盾する国家的な戦略目標の二重性としてとらえ直した。さらにこれらの国家戦略の基底にヨーロッパ的原理とアジア的原理という矛盾する二重原理があることを竹内は指摘した。こうして戦争の二重性は日本近代史に拡大され、近代日本の戦争史・対外関係史の二重性として敷衍されたのである。だが「大東亜戦争」とははたして二重の性格をもつのかと、私はすでに疑った。「大東亜戦争」を二つの戦争とすることは、日本の行なった帝国主義侵略戦争の性格を、自己弁護的にあいまいにするだけだと私はいった。この戦争の二重性を竹内がさらに近代日本の国家的な戦略目標の二重性に、あるいは矛盾する基底的原理の二重性に拡大するとき、私の二重性への疑いはいっそう強くなっても、変わることはない。
 竹内がいう「東亜における指導権の要求」と「欧米に対する世界制覇の目標」といった近代日本の国家的な戦略目標が、一つの戦略目標として歴史の上に存在してくるのは第一次大戦以降のことであるただすでに注記したことだが、竹内のいう「欧米に対する世界制覇の目標」とは過剰な表現と思われる。「世界制覇」で竹内が何を考えているのか。私はその語を「世界秩序の再編成の要求」の意に解して、そのまま使っていく。ところで日本は第一次大戦を通じて国際政治ゲームの主要プレーヤーの一つになるのである。その意味で一九二〇年とは日本近代史の大きな転換点である。そのことは日本が世界秩序の再編成を要求しうる大国の一つになったことを意味している。竹内がいう「東亜における指導権の要求」と「欧米に対する世界制覇の目標」とが一つの国家的な戦略目標として顕在化するのは、ここからである。すなわちアジアの盟主として日本がアジアをヨーロッパに向かって要求していくのは、一九二〇年以降である。これが大陸における軍事行動をともなって世界に帝国日本の要求として明示化されていくのが、満州事変に始まる「アジア・太平洋戦争」という日本の帝国主義的戦争過程である。この過程に日本軍部を含む権力内部にアジア派と欧米派との間の駆け引きや葛藤があっても、それは原理的な葛藤ではない。大陸政策という帝国日本の存立の絶対的前提というべき国家戦略に変容を加えるようなものではまったくない。昭和日本は欧米を向こうに廻しながら、この大陸政策に軍事的な形を与えていったのである。先進的ヨーロッパ文明国にならって先進国化の道をひたすら突き進んできた日本が、いま先進的文明諸国と帝国主義的覇権を競い合う段階に達したのである。それが昭和である。その昭和日本の立つ原理とはヨーロッパ的原理であって、アジア的原理ではない。竹内も福沢諭吉の文明論を借りながらいっている。

 戦闘的啓蒙としての福沢の役割りは、たぶん日清戦争まででおわっているだろう。彼の思想が国家の思想として実現し、定着することによって思想家そのものは消滅するのである。その後のすべての軍事行動、および外交政策は、ことごとく文明一元論によって正統化されることになる、少なくとも太平洋戦争の前の段階まではそうであった。(竹内好「日本とアジア」1966)

 竹内がここで「文明一元論」といっているのは、日本の近代化をヨーロッパ文明化に一元的に方向づけた福沢の文明論的な立場をいっている。それはヨーロッパ的原理による近代化であり、これが近代国家日本の原理であったと竹内はいっているのである。ただそれは「少なくとも太平洋戦争の前の段階まで」と竹内が限定するのは、彼のいう戦争の二重性にかかわってであろうか。ともあれヨーロッパ的原理が近代日本国家の原理であったと竹内もいうのである。ではアジア的原理とはどこにあるのか。はたしてそれは日本の国家戦略の基底にヨーロッパ的原理と矛盾葛藤する形で存在したのか。
 アジア的原理とは、竹内もいうように、日本が欧米に対してアジアを背景に自己主張する際に必要とした対抗原理であった。だがその自己主張する日本とはヨーロッパ的原理に立つ先進国家であるゆえに、日本が装うアジア的原理の疑似性はすぐに露見してしまうのである。「アジアの盟主」を欧米に承認させるためにはアジア的原理によらなければならぬが、日本自身が対アジア政策ではアジア的原理を放棄しているために、連帯の基礎は現実にはなかった」と竹内もいっていた。ヨーロッパ的原理は近代日本の国家形成過程に存在してきたように、存在してきたわけではない。それはヨーロッパ的原理への対抗と抵抗とが要請する非実体的な負の原理である。ヨーロッパに対するアジアの概念自体がすでにそうであった。「文明の否定を通しての文明の再建である。これがアジアの原理であり、この原理を把握したものがアジアである」と竹内はいっている。文明一元論的に世界を支配し、世界に浸透するヨーロッパ文明に否定的に対抗し、その否定として文明を再建しようとする原理がアジア的原理であり、その原理を把握するものがアジアであると竹内はいうのである。これは竹内によるアジア概念のすぐれた非実体的構成である。さればこそアジア的原理とは、日本近代史の非正統的少数者にになわれた抵抗的原理であったのである。とすればアジア的原理とは、近代日本の国家的戦略の基底にヨーロッパ的原理と矛盾しながら二重性をなして存在するような原理ではないはずである。ところが竹内の「近代の超克」再論は、「大東亜戦争」の二重性によって、近代日本国家の戦争伝統における矛盾する二つの原理の緊張的な持続をいい、それが「永久戦争」の運命を太平洋戦争(対米英戦争)に与えたというのである。これは一体何なのか。竹内は自らに反してアジア的原理を歴史の上に対抗原理として実体化しているのではないか。しかしあえてそうしながら竹内は、いったい何がいいたいのか。いいたいのは「永久戦争」なのか。
 
 竹内は「近代の超克」再論で「太平洋戦争の思想的性格は、まだよくわかっていない」として近代日本の三大戦争(日清、日露、大東亜戦争)の開戦の詔勅を手がかりにして、戦争の「公の性格」をとり出そうとしている。」子安宣邦「「近代の超克」と戦争の二重性」(子安『「近代の超克」とは何か』青土社、2008.所収)pp.199-203.

著者の子安宣邦氏は、日本思想史の大家。大阪大学名誉教授、日本思想史学会元会長で、東大で丸山眞男の門下として知られる。シュタイナー教育で知られる子安美知子さんは妻。「近代の超克とは何か」は『現代思想』に2007年4月号から2008年3月号まで連載されたものである。この本の「あとがき」にこういう文章がある。
 「この「近代」の超克とは、まさしく「昭和イデオロギー」なのだ。だが昭和の終焉とともに、このイデオロギーも終息したわけではない。新たな「近代の超克」をいう反―近代主義は、二一世紀の日本にいくらでも再生している。「アジア的な真正の近代」を求める言説として。「昭和イデオロギー批判」としての本書は、書かれねばならなかったのである」

 「近代の超克」は、対米英戦争の開始された勅語の1942年(昭和17)年7月に、13人の学者知識人によって行われた座談会のタイトルであり、雑誌『文学界』に掲載されて大きな反響を呼んだものである。だが、子安はこの座談会には出ていない「日本ロマン派」の安田與重郎と「京都学派」の高山岩男あるいは西田幾多郎こそ触れるべきだといった、戦後の1951(昭和26)年に書かれた竹内好の言説に注目して、この「近代の超克」論を展開している。そこで問われたことは、いまもなおこの日本という国内で繰り返し登場する「日本ナショナリズム」のイデオロギーとして、少しも過去のものではない、と子安はいう。ぼくもますますそう思う。



B.恋愛はめんどうくさい、ことか?
 1960年ごろまでの日本では、「結婚」は誰もがするもので、30歳過ぎて結婚していないという人は、なにか特殊な事情にあるか、肉体的結婚があるかのようにみられた。その後、そうした結婚観は急速に変化し、「結婚」は必ずしもしなければいけないものではなくなっていった。社会的慣行としての「見合い」という形態も急速に衰弱していった。それと並行して、「恋愛」が多くの若者にとって重要な課題に浮上した。恋愛はすばらしいものだという言説は、もっと前から文化的目標として普及していたが、1990年ごろには、20歳過ぎたら異性と恋愛して愛情に満ちた結婚にたどり着くのが、望ましいライフコースのモデルのようになった。しかし、現実には個人の私事としての「恋愛」は、誰もができるものではなく、若者は恋愛をしてパートナーをもつことがむしろ難しくなった(かもしれない)。そして21世紀の現在、恋愛などしない、という考えをもつ若者が増えている、という仮説を確かめようとしている(らしい)。

「耕論:若者の恋愛ばなれ? 街角にクリスマスソングが流れる季節。かつて、当日、誰と過ごすかで盛り上がったが、いまは若者の恋愛への熱意が薄れてきたという。それって本当なの?
 割に合わない嗜好品に   牛窪恵さん(世代・トレンド評論家)
 若者の恋愛観を、実際に当事者に話を聞きながら調べ続けてきました。今の20~30代は、恋愛を必需品ではなくて嗜好品と捉えており、手間やリスクを考えると割に合わないもの、と考える人が多くなっていると感じます。
 21世紀に入り、まず変わったのが男性の恋愛観です。景気低迷と将来不安の高まりから、無用な消費を嫌がり、わざわざ恋をしてお金や時間を使いたくない。初めから男女平等の教育を受けており「男が引っ張る」感覚も弱い。
 それでも、少し前まで女性には恋愛願望がみられましたが、最近は男女を問わず「恋愛は面倒」という声が多くなりました。おそらく最大の理由は、常にスマホでネットや人とつながっている「超情報化社会」になったことです。
 まず、満たされやすくなっています。私の大学時代は、授業以外はサークルかバイト、あとはデートくらいしか楽しみがなかった。でも今は無料の動画やゲームも多く、友人とも常時つながっている。恋をしなくても、いくらでも楽しく過ごせます。性愛への関心も、いまはスマホで満たせる。困り事も、助けてくれた誰かにときめく前にスマホが解決してしまい、ロマンチックな瞬間が訪れにくい。
 職場ではハラスメント扱いされるのが心配で誘いにくいし、やっと告白しても、内容を転送されて恥じをかいたり。付き合えば、行動がスマホ上で筒抜けで束縛されやすく、別れれば、相手のスマホに自分のデータや画像が残っているからストーカーやリベンジポルノも怖い。これだけの面倒やリスクを背負ってまで、特定の人と深い関係になる必然性が薄れているのです。
 だから上の世代は「恋愛しない方がおかしい」と自分たちの感覚で見ず、そうした現代的な難しさを理解したうえでサポートする必要があります。当の若者には、パートナーを見つける動物的本能を取り戻すため、時々は「スマホ断ち」も大切だと伝えたい。ネットと切れた状態で、「あの人に会いたい」といった自分の自然な感情に、静かに耳を傾ける時間も必要です。
 もともと、昔の日本は西欧型の大恋愛ではなく、一緒に暮らしてから情が移っていくタイプの文化でした。トレンディ―ドラマが全盛だったバブル前後が、むしろ例外的だったのかもしれず、恋愛より情愛を重視するのは決して悪いことではありません。
 ただ、私の経験上も、結婚後に「思っていたのと違う」という瞬間は必ずある。その時、「あれだけ好きになった人だから仕方がない」という割りきりも支えになります。今の若者は賢く先読みしがちですが、人生を納得させるためにも、一度は後先考えずに「燃え上がる恋」をするのも悪くないと思うのですが。 (聞き手・吉川啓一郎)
 
「どもる」に不寛容な時代: 山田舜也さん(東京大学 生きづらさの研究会代表)
 中高一貫の男子校から理学部に進み、周辺には母親以外の女性とは話したことがないという学生も多くいました。サークルにもクラスにも、誰かが恋愛関係になるという話はあまりなかったですね。
 「彼女がほしい」と意気込んで入学した学生は、女の子が多いサークルに入って彼女をつくるんです。でも、それって特定の相手に向いた気持ではなく、「彼女一般」がほしいわけで、ぼくはそういう思いにはなれませんでした。20歳の頃、すごく好きになった女の子がいましたが、思いをうまく伝えられず、とても後悔しました。
 今はネットで、性的な映像に簡単にアクセスできてしまいます。セックスがゴールではありませんが、逆に、性的な関係に至るまでの距離の縮め方や、そもそも「恋人になる」とはどういうことなのかがわからない、という同世代の人も多いと思います。
 ぼくは吃音で、吃音者の立場からコミュニケーションについてよく考えるのですが、ぼくらは比喩的に言えば「どもらない世代」なのかもしれないと思うことがあります。
 誰かを好きになり、関係を結ぼうとする過程には、自分が傷つく可能性、リスクを多く含んでいますよね。だから、最初に相手に告白するときは緊張して、うまく話せず、言いよどんだり、つっかえたりする。つまり「どもる」のが普通だと思うんです。「どもる」からこその真実味、「この人、たどたどしいけれど、私を心から大切に思っているのはわかる」という感覚は、かつてはもっと社会に共有されていたと思います。「どもってしまうこと」も「コミュニケーション力」の一つだったのです。
 でも最近は、シンプルによどみなく話すこと、そつなく、わかりやすく話すことが「コミュニケーション力」として称揚される風潮があります。「うまく話せない」「つっかえる」だけで「コミュ障」(コミュニケーション障害)とされかねない。吃音者に限らず、生きづらい時代なのかもしれません。
 こんなふうに意識が変わってきてしまうと、バリアーが高くなります。告白しようとしても、「どもる」からやめておこう、もういいや、と「方向転換」してしまう。そんな思いで、立ち往生してしまう学生は多いと思います。その結果として、自分の中にある欲望を無視することが習慣化されてしまいます。
 恋愛なんかしなくてもいいと開き直れれば楽です。でも、誰かと付き合えるなら付き合いたい。そのために能動的に動くリスクは年を取るごとに高まります。16歳で恋愛で失敗するのと、40歳で恋愛経験がなく失敗するのでは全く意味が違います。そこまで考えておくべきなのかも知れません。 (聞き手・中島鉄郎)

*失敗を恐れ「イタイ」回避 :トミヤマ ユキコさん(早稲田大学助教)
 大学で少女漫画を研究していて、毎年、学生に1990年代に安野モヨコさんが描いた「ハッピー・マニア」を読ませています。恋愛至上主義者のカヨコが主人公で、すぐ男を好きになり、すぐ相手と寝て、「この人じゃなかった」と後悔する。恋愛で失敗ばかりしています。
 私の世代では恋愛のバイブルみたいな漫画でした。7,8年前の学生たちは「イタイけど気持ちはわかる」「この学ばなさ、わかる」といった感想でした。自分は彼女とは違うにせよ、「共感できる」と感じる学生がいました。
 ところが最近の学生の感想は違います。「この人、結局何がしたいんですか」「こんな失敗繰り返ししていたら独居老人になるだけ」と主人公の後先見ない恋愛に、腹を立てたり、説教モードに入ったりするんです。彼らにとっての恋愛が、以前のものとは全く違っているからです。
 とくに女子は保守的で、「成功したい」ではなく「失敗したくない」が基本。就職で社会への出方でつまづいてしまう危険があるように、恋愛も失敗するとレールをはずれ、いずれ「社会的死」につながるものと考えています。彼女たちには「恋愛に全てを」かけた結果、失敗してもゼロに戻ればいい」という選択肢がないようなのです。
 昔は普通のクラスに数組はいたカップルも、一部のサークルは別にしてあまり見ません。別れたら気まずいからです。一方で、卒業後すぐ結婚してくれそうな彼氏をつくろうと考える、主婦願望の強い学生がじわじわ増えてます。
 こんな女子学生の話を聴きました。憧れの先輩がこっちを振り向いてくれず、でも怖いから告白もできない。とりあえず嫌われていない状態で様子を見つつ、余ったエネルギーを出会い系アプリに振り向けている。そこでゲーム感覚で「いいね」をもらえることに喜びを見いだす。かといってそこから関係が進むわけでもない。
生身の人間相手の重いコミュニケーションは難しいので、アプリを媒介にした軽いコミュニケイションで承認欲求を満たし、二つの関係を行き来しながら自分の気持ちをなだめているです。
 今までの恋愛を基準にすれば、「恋愛ばなれ」となります。もっとも私は、誰もが恋愛をすべきだとは全く思いません。そもそも恋愛が苦手、興味がないという人は潜在的には多くいるはずです。「恋愛はすべき」という社会的抑圧が強いので恋愛結婚はしたけれど、本音では「恋愛には興味ない」人たちが多く隠れているのではないでしょうか。スポーツに興味がないように恋愛には関心がないけれど、それでいて豊かな人間関係を築いていくことは普通にできるからです。 (聞き手・中島鉄郎)」朝日新聞2017年12月12日朝刊、17面オピニオン欄。

 国家社会の政策として少子化をくいとめようと、高齢者よりも出産・子育てへの援助を強めようとしている日本だが、いっこうに成果はあがらない。子どもを産む以前に、カップルができなければならず、恋愛結婚を前提にすれば、恋愛しなければカップルはできないという順序で、では若者に恋愛させるのはどうしたらいいか、という話になるとすれば、政治家が予算をどうこうするというレベルでは解決しない。ここで発言している人たちの言説がもたらす事態は、恋愛のような面倒くさいことをする誘因はどんどん希薄になってくるし、そのイデオロギーと思想の問題までおりて考えなければ、有効な手は打てないことははっきりしていると思う。
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