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音の記憶Ⅹ 矢野顕子1  元素周期表と元素の命名

2017-06-15 23:14:26 | 日記
A.音の記憶Ⅹ 矢野顕子1
 矢野顕子の音楽を、なんと呼んだらいいのだろう?ポップス、ジャズ、フュージョン、童謡?民謡?ソウルとかフォークとかニュー・ミュージックなんていう前世紀の死語からも遠いし、ロックやヒップホップとはとてもいえない。要するにヤノアキコ・ミュージックというしかない。ピアノの弾き語りというスタイルは、女性ミュージシャンでは珍しいとは言えないが、そのピアノはきわめて弾けてユニークなもので、これに歌が乗るわけだが、詩は自作も他作もあって、やはり矢野顕子というしかない歌詞の色合いがある。たとえばこの傑作「ラーメンたべたい」。
 
 ラーメン食べたい  作詞・作曲 矢野顕子
ラーメンたべたい  ひとりでたべたい  熱いのたべたい
ラーメンたべたい  うまいのたべたい  今すぐたべたい
チャーシューはいらない  なるともいらない  ぜいたくいわない  いわない けど けど…
ねぎはいれてね  にんにくもいれて  山盛りいれて
男もつらいけど  女もつらいのよ  友達になれたらいいのにね
くたびれる毎日  話がしたいから  思い切り大きな字の手紙 読んでね
となりにすわる  恋人達には  目もくれずたべる
わたしはわたしの  ラーメンたべる  責任もってたべる
今度くるときゃ ah  みんなでくるわ  ばあちゃんもつれてくる  けど けど けど ah…
今はひとりで  ひとりでたべたい  ラーメンたべたい mm…
男もつらいけど  女もつらいのよ  友達になれたらいいのに
あきらめたくないの  泣きたくなるけれど  わたしのこと どうぞ思いだしてね
ラーメンたべたい  ひとりでたべたい  熱いのたべたい
ラーメンたべたい  うまいのたべたい  今すぐたべたい  たべたいha…
Mm… (ラーメンたべたい ひとりでたべたい 熱いのたべたい  
Mm… (ラーメンたべたい ひとりでたべたい 熱いのたべたい  
Ah…ラーメンたべたい  ひとりでたべたい  ha fufufu…
ラーメンたべたい  うまいのたべたい  ha hahaha… 
(1984年アルバム「オーエス・オーエス」収録)

 1994年に詩の教材として高校国語の教科書に掲載されたという歌詞は、たしかに言葉の遊びとラーメンという大衆食の王者を「たべたい」でつなぐ、洗練された音楽に乗せてユニークである。この間、この「ラーメンたべたい」を、若いジャズピアニスト上原ひろみとのデュオ・ライブの映像を見た。これはもう完全にジャズのアドリブで、楽しそうに唄い相変わらずだが、歌詞は適当にアレンジして変えたりする。いったいこの人ってどういう育ち方をしたんだろう?確か青森で育ったというが・・青森のイメージとはおよそ結びつかない。そういえば青森市から出た消しゴム版画家のナンシー関さん(1962年7月 - 2002 年6月)も才気に満ちた人だったが、残念ながら早くなくなってしまった。
 調べてみたら矢野顕子さんは生れは1955年東京であった。3歳のとき医師だった父が青森で開業したために転居し、中学までは青森、青森明の星高校付属ピアノ教室でピアノを習う。鍵盤にカミソリを立てて練習するという厳しいレッスンだったという。すでにその頃から「その日起きた楽しかったこと」を即興のピアノと歌で表現し、発表会では既定の曲を即興でアレンジすることもあったようだ。ザ・ゴールデン・カップスのファンになり、青森から彼らがデビュー以来出演していた横浜市本牧のバー「ゴールデン・カップ」まで見物に行っていたという。1971年軽音楽部に憧れて単身上京し青山学院高等部に入学。高校生の部活動では満足できなくなり、15歳のとき父親の知人である安部譲二と当時の妻、遠藤瓔子が経営するジャズクラブ「青山ロブロイ」を訪れ、のちに安部家に下宿しながら夜な夜なセッションを繰り広げた。これが業界人の間でたちまち噂になり、やがて高校を2年の夏休みに中退してプロの道を選ぶ。
  1973年、ファーストアルバム発売を前提に、細野晴臣、林立夫らキャラメル・ママ(のちティン・パン・アレー)の主要メンバーと共にスタジオ録音を行う。結局アルバムは発売されず、一部の録音がアルバム『JAPANESE GIRL』、『いろはにこんぺいとう』、及び1996年発売のベストアルバム『ひとつだけ/the very best of 矢野顕子』に収録された。この頃からセッション・ミュージシャン(キーボード、コーラス)として、アグネス・チャン、荒井由実、吉田美奈子などさまざまなアーティストのレコーディングに参加。1974年、バンド「ザリバ」名義で、トリオレコードよりシングル『或る日』をリリース。デビュー当時18歳。レコード会社は矢野にしか興味が無かったので、シングル1枚を発売しただけですぐに解散となる。このデビュー盤のアレンジを担当した矢野誠と長男の妊娠を機に。当時19歳。
  1975年 小坂忠に「鈴木晶子」名義で楽曲提供。1976年 デビューアルバム『JAPANESE GIRL』を発表。デビュー作にして、米国のロックバンド、リトル・フィートをバックバンドに迎えてアルバムの片面で渡り合っている。もう一方は、あがた森魚、細野晴臣、鈴木茂、駒沢裕城、ムーンライダーズの面々。自作曲のほかに、故郷青森の民謡と、歌謡曲を矢野顕子流に料理した傑作。 
  1977年4月より1年間、NHKのAMラジオ番組「若いこだま」のパーソナリティを担当。8月発売のセカンドアルバム『いろはにこんぺいとう』、このときのシンセサイザー・プログラマ松武秀樹と矢野で翌年には『ト・キ・メ・キ』発売。さらに矢野、松武ともどもイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)にサポートメンバーとして参加。矢野はその後坂本龍一、ジェフ・ボヴァ、レイ・ハラカミと共同作業者を変えながらも、電子音楽への傾倒を継続することになる。
  1978年9月、「ト・キ・メ・キ」ツアーにYMOのメンバー3人が参加。YMOとの共同作業の開始。1979年 矢野誠と離婚。ライブアルバム『東京は夜の7時』発表。同アルバム収録曲「カタルン・カララン」の作詞は、菊地まみと矢野風太と3名の共作となっている。KYLYN BAND(渡辺香津美主宰)やカクトウギ・セッション(坂本龍一主宰)、YMOの第1回ワールドツアーに参加。1980年 5月に長女美雨誕生。3月に産休に入り、YMOの国内ツアーには不参加。10月からの第2回ワールドツアーには再び参加。10月発売のアルバム『ごはんができたよ』から徳間ジャパンに移籍。このアルバムは、YMOのメンバーが全面的にバッキングした、LP2枚組の大作である。
1981年 カネボウ化粧品のCMソングに起用されたシングル『春咲小紅』が、オリコンシングルチャート最高5位となるヒット。シングルヒットとはほとんど無縁で、この曲以後、1990年にドラマ『やっぱり猫が好き』のオープニングテーマだった「David」が発売されるまでは、オリコンシングルチャートに登場することはなかった。1982年 坂本龍一と正式に結婚。糸井重里の発案で、中断期をはさみながらピアノ1台あればどこへでもライヴに赴くという「出前コンサート」をスタート。時期により形態は異なるが、スタッフはマネジメントとサウンドエンジニアのみ、個人でも招聘することができ、若年者と高齢者は入場料が無料となったこともある。
 以上がWikipedia等に記述される矢野顕子さんの20代末頃までのおもな歩みである。いわゆる音楽業界的あるいはマスコミ芸能界情報的な目で、矢野顕子という人を捉える限り、どうも普通のタレントのような実体と虚像のズレとか、売り出すときのイメージの作為と私生活のスキャンダルとか、男遍歴と息子と娘との母子関係とかといったあれこれが、たいして人の話題にする価値がなくなるほど彼女の音楽のほうがあまりに突出していて、本人がいちばんその手の俗事を気にかけていないのだと思えてしまう。つまりそんなことを気にしている人は、いやでも小さく見える。
  アメリカ初の新宗教「エホバの証人」の信者だということが、坂本龍一との離婚の原因だといったような話も、要するにそういうことは信仰をどう考えるかということで、これが「統一教会」や「幸福の科学」であったら彼女の音楽の質そのもの硬直させて関わってくるだろうが、エホバの証人の教義や活動をよく知っていれば、それを矢野顕子流に解釈して音楽に反映させていると想像はできそうだ。言ってみればこの人は意識の上で宙を飛んでいるような人であり、それが音楽の表現そのものに自在に現われるミューズなのだ。坂本龍一は、矢野顕子の音楽の才能そのものに惚れたので、それ以外にはあまり関心はなかったのだろう。確かに音楽というものをよく理解している人なら、矢野顕子が凡百の才能など超越したミュージシャンであることはすぐわかる。
  その後の矢野顕子の活動は坂本龍一とともに、拠点をニューヨークに移して続行されていくが、1985年には高橋悠治のピアノによる歌曲集『BROOCH』という自主製作版も作っている。いまやこの人に怖いものなどない。いや高校生の頃から、この人をピアノの前に坐らせれば、恐いものなどなかったに違いない。



B.元素っていくつあるのか?
 国会では「共謀罪」の強行採決や「加計学園」「森友学園」がらみの愚劣な抗争が終盤を迎えているが、新聞の片隅にそういう話題とは雰囲気の違う記事が載っていた。

「ことばの広場(校閲センターから):ニホニウム
 日本生まれの初の元素である113番「ニホニウム」がこの春、理科の教科書の一部に載りました。昨年、その命名も話題になりましたが、ニホニウムと同時に名付けられた他の3元素のうち、米テネシー州から付いた「テネシン」と、ロシアの首都からとられた「モスコビウム」も地名が由来でした。
 国名から名付けられた元素はさほど多くないですが、地名が由来なのは20以上あります。
 「国名元素」としては、フランスが由来のフランシウムのほか、古代の国名やラテン語の国名を付けたものがあります。19世紀末に発見されたポロニウムは、ポーランド出身の化学者マリー・キュリーが故郷の独立運動を思い、ラテン語の国名「ポロニア」から命名しました。
 アメリシウムの由来も一見、アメリカ合衆国のようですが、アメリカ大陸です。周期表の一つ上にユウロピウムがあり、「欧州の次は米大陸」と連想ゲームのように命名されました。
 ローカルな地名から複数の元素名が生まれた例も。ストックホルム近郊の小村イッテルビーは、産出する鉱石から次々と元素が見つかり、イットリウム、テルビウム、エルビウム、イッテルビウムの四つの名前の由来になりました。この鉱石の研究の先駆者ガドリンも、ガドリニウムに名を残しています。
 一方、47番の「銀」は逆に、国名の由来になっています。大航海時代にスペイン人が、南米を流れる川を「ラプラタ」(スペイン語で銀)と呼んだのがきっかけで、銀のラテン語名アルゲントゥムが元となって、国名「アルゼンチン」が生まれました。銀の元素記号Agもアルゲントゥムからとっています。
 ニホニウムを発見した理化学研究所(埼玉県和光市)と最寄り駅を結ぶ道路は、市民らの投票で「ニホニウム通り」と名が付きました。日本でまた元素の発見があれば、それにちなんだ地名も現われるかもしれません。 (加藤正朗)」朝日新聞2017年6月14日朝刊13面オピニオン欄。


 昔高校の化学の授業で、元素の周期表というのを教わった記憶はあるが、とにかく元素というのがいろいろあって、名前や記号がついているぐらいしか覚えてなかった。元素というのは、誰かが発見するものらしく、その後も次々新たな元素が見つかったようだ。そもそも世界は何からできているかという発想から、古今の哲学や宗教は四大元素(地、水、空気、火)とか霊魂とかエーテルとかいろんな説を唱えていたが、「万物は、その根源をなす不可欠な究極的要素からなる」という自然観は、科学の起源の一つをなした。そしてこの「究極的要素」を元素と呼び、「それ以上分けることができない物質」として定義されたのは18世紀になってからだという。実はその時点までに炭素、金、硫黄、鉄など10種類以上の元素は既に知られていて、19世紀になると「物質を構成する最小の粒子」を原子とする概念が広く支持されるようになり、元素の物質的正体は原子とされ、元素は「原子の化学的性質を表す概念」または「同じ陽子数を持つ原子の総称」となった。現在では、原子よりさらに小さい素粒子が「物質を構成する最小の粒子」と教えられる。
  高校生のぼくは、科学と物理の区別もよくわかっていなかったので、物質の最小の単位が原子でたとえばH2Oは水素原子2個と酸素原子1個がくっついていると説明されると分かったような気にはなる。でも、酸素と水素は何が違うのか?すると今度は、原子というのは微小な玉のようなもので原子核の周りを陽子とか電子とかが飛び回っているのだという。そこで周期表がくる。元素は要するに重さがそれぞれ違うらしいので、軽い方から順番に並べていくと周期表ができるという。
  1869年、ロシアのメンデレーエフが提唱した「元素周期表」は鉛(Pb 原子番号 82)まで、そして1871年に発表した第二周期表には既に天然で最も重いウラン(U 原子番号92)があったが、まだ空欄が残っていた。その空欄はその後の発見で徐々に減り、すべてを埋めるには1930年代の加速器の登場を待つ必要があった。そして加速器の登場はウランより重い元素(超ウラン元素)を人工的に作り出すことも可能にしたのだという。
 1940年に米国のエドウィン・マクミランらによってネプツニウム(Np 原子番号 93)が作られると、米国で次々と超ウラン元素が作り出され、それらの功績によりマクミランとシーボーグは1951年にノーベル化学賞(超ウラン元素の発見)を受賞した。1958年にアメリカでノーベリウム(No 原子番号102)が作られると、その後はソ連(ロシア)、ドイツ、そして日本がこの競争に参入、最近ではロシアと米国の共同研究グループが発見した114番、116番元素に、それぞれフレロビウム(Fl)、リバモリウム(Lv)という名前がついた。
  かつて日本でも元素を発見、そして命名したという話があって、小川正孝(1865-1930)により1908年、原子量が約100の43番元素を精製・分離したと主張し、ニッポニウムとして発表した。しかし他の誰も結果を再現できず、その信頼性は揺らいでいき、29年後の1937年、エミリオ・セグレが米国の加速器を使って43番元素を作り出した。ニッポニウムは幻となり、43番元素は1947年にテクネチウム(Tc)と命名された。実はこのテクネチウムに安定元素は存在せず、小川の方法では見つかるはずがなかった。では小川は全く間違っていたのか?小川の死後、研究資料を詳しく調べると、精製・分離したその物質はテクネチウムと化学的性質が似ている周期表直下の元素、レニウム(Re 原子番号75、1925年に独のワルター・ノダックらが発見)であることが判明した。小川が1908年に新元素を見つけていたのは事実だった。※出典・梶雅範, 吉原賢二, "小川正孝─新元素「ニッポニウム」の発見者" サイエンスネット No.19 pp. 2-5 (2003)
マクミランらが93番元素(ネプツニウム)を発見した1940年には、仁科芳雄(1890-1951)が加速器を用いウラン238から中性子を一つ叩き出す実験を行っています。生成されたウラン237のβ崩壊を観測しましたから、ウランより陽子が一つ多い93番元素が間違いなく生成されていたはずです。残念ながら新元素の化学分離が出来ず、新元素発見には至らなかったのです。
 ・池田 長生 "ウラン-237 と対称核分裂の発見" 仁科芳雄博士生誕120周年記念講演会講演録 P.40 仁科記念財団冊子NKZ-52 (2011.3)
理化研HPの説明によれば、命名権はどのようにして得られ、元素の名前はどのように決まるのか。まずは研究グループが新元素発見を主張する論文を発表。その後、「国際純正・応用化学連合(IUPAC:International Union of Pure and Applied Chemistry)」と「国際純粋・応用物理学連合(IUPAP:International Union of Pure and Applied Physics)」が推薦する有識者で構成された合同作業部会「JWP:Joint Working Party」 がその論文の実験結果の信頼性を審議する。JWPはその審議内容を記した報告書(論文)をIUPACに提出、報告書に問題がないと判断された場合、IUPACが新元素を発見した研究グループを認定するとともに、新元素の命名権を同グループに与える。元素の命名については以下のようなIUPACの定めたルールがあるという。IUPACの命名に関するドキュメントへのリンク(PDF)その中の "3. CHOICE OF NAMES FOR NEW ELEMENTS" の一部を簡単に訳すと以下の通りになる。
 3.新元素の名前の選び方 伝統に従い、元素の名前は以下のようにつける:神話の構想または人物(天体も含む)、鉱物または類似物質、場所または地理的領域、元素の性質、科学者。したがって、社名、組織名は不可になる。つまり、「リケニウム」は不可。また、以下のような補足がある。正式でなくとも一度付けられた名前は混乱を避けるため使う事はできない。
 したがって、かつて43番元素に対して一旦付けられた「ニッポニウム」は使えません。そして、あともう一つ、 末尾に「-ium」と付ける。

 ほう・・なるほどね、というしかない話だな。
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