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女優列伝Ⅶ 浦辺粂子3  人民の扶育・上からの思想宣布

2017-08-14 12:24:23 | 日記
A.女優列伝Ⅶ 浦辺粂子3 
   明治35年生まれの浦辺粂子さんが、大正12年21歳で日活京都撮影所の女優になった時代は、まっとうな家庭に生まれた女の子は、20歳には親の手配した見合い相手と結婚するのが当たり前だった。それまでに行儀見習いや料理裁縫家事一般の花嫁修業が必修科目でもあった。女優などという仕事は、せいぜい結婚前のちょっとした寄り道で、長く続けるものとは当人も思っていない。女の幸せはなんといっても、将来有望な男の妻に収まって子を産み、立派な奥様になることと世間では決まっていた。無声映画からトーキーに移っていく大手の撮影所でも、多くの女優は結婚で引退するのは予定の行動だった。
 だが浦辺さんは、家出して親との縁も切れていて、結婚よりも女優の仕事に人並み以上の意欲を燃やす風変わりな女優だった。それを見て演技指導をしてくれたのが溝口健二監督だった。

 「とにかく「実地に勉強しろ」が、溝口先生の口ぐせでした。
何の映画だったか忘れましたが『塵境』の少し後だったと思います。乞食の実地勉強をしたときは、面白かったです。
 清水寺の裏参道に、その時分は、お乞食さんがズラーッと並んでいたものです。参拝客は本道にお参りしたあと、裏参道を通って、お俊・伝兵衛のお墓を拝んで帰るというのが道筋になっていたからです。会社から、乞食の親方に話をつけてもらって、親方の家で衣装をつけました。ボロボロの、臭いような着物とわら草履です。他のお乞食さんと一緒に、むしろの上に座って、「どーぞ」「どーぞ一文」て言うのです。その親方の家というのが、ものすごく立派で、息子が同志社大学に行っているんですから、あきれてしまいました……。
 朝は九時過ぎから一時間か二時間ぐらいみんなと一緒に座って、三日ぐらい通いましたが、もらいはたいしたことありませんでしたね。それぐらい勉強したからって、役は、ただ座っているだけの、ほんのチョイ役です。
 でも、可愛がってくれましたよ、親方も、いっしょに座っているお乞食さんも。
 実地勉強は楽しいです。あたし大好きです。いまだに。」浦辺粂子『映画道中無我夢中』河出書房新社、1985. pp.78-79.

 演技の勉強に、乞食になって清水の参道に座ってお金をもらう体験学習を三日。若き浦辺さんにはこれが楽しかったのだろう。「赤線地帯」の時は、吉原の遊郭に通って娼婦と仲良くなり彼女たちの日常会話を実地勉強した。好奇心と自負と勝気を身上とする浦辺さんは、結局映画女優の世界でず~っと自由を満喫して生きていき、映画界が衰退してテレビの時代になり、さらに勲章(紫綬褒章)をもらったり、80歳近くなって歌手デビューしたりと現役で活躍した。
 
「映画の斜陽なんて言っていたのは、ついこの間のような気がしますが、今は誰もそんなことは言わなくなりました。テレビを見ないと変わっていると言われるけれど、映画を見なくてもおかしくない、今の世の中。
 あたしもここ数年テレビの仕事が多く、それも、あたしは女優ですからドラマがほとんどでしたが、昨年あたりからテレビの世界も少しずつ変わってきました。テレビドラマが飽きられて、バラエティ・ショウや、ドキュメントに人気が出てきたということです。
 あたしに、レコードの話がきたのは、昨年の夏の終わりごろだったと思います。
 「あたし、歌手になりたいの」――就職情報誌のCMで、明るい緑色の派手なドレスに大きいつばのある帽子をかぶってあたしが言ったセリフですが、あのCM、人気があったらしいんです。その浦辺粂子を、ほんとに歌手にさせてあげましょうってわけです。
 それともう一つは、お笑いの片岡鶴太郎さんが、いろんなところであたしの声色をやって、人気の的になっていたからでしょうね。
 はじめはあたし、いやだって言ったんです。年十年も前に、田谷力三さんから「歌は下手」だって、お墨つきをいただいているぐらいですから。冗談じゃないですよ。それなのに、レコード会社に人たちに、おだてられたり、励まされたりして、とうとうもう、やるしかないってところまで追い込まれちゃって。
 いい恥かきました。
 最初はしみじみした感じの『タコの唄』一曲だけの予定でしたが、今風なものも入れようってことで、急に『私歌手になりましたよ』にと、二曲吹き込むことになって。〽ルンルンルン、私の心に春風が……って歌い出しの、あれがA面です。
 レコーディング、大変でした。できあがったのを聞いてみましたが、やっぱりダメ。子供のコーラスでごまかしているんですから。レコーディングしてから二日目ぐらいで記者会見をさせられましたが、そのときも「もう二度と歌わない」って言いました。
 売り出すのが十一月でしたから、十二月の忘年会用にキャンペーンしようってことで、大忙しです。あっちこっちで歌わなきゃならないから、毎日レッスンです。夜、新宿の中央公園に行って、車のなかでやりました。パトロールのお巡りさんが、車の中をのぞきこんでびっくりしていました。
 赤いボンボンがついたベレー帽、白いセーター、チェックのスカート、ハイソックスにペッチャンコの靴、肩からかけるポシェット、全部原宿で揃えました。電池がしかけてあって、ピカピカ光る粂子バッチまでつくりました。
 これで、アイドル歌手みたいフリをつけて〽ルンルンルン……てやったら、受けちゃいましたね。「カワイイ!」なんて言われて、発売日にレコード店回りをしたら、小さいお子さんたちに随分サインをねだられました。東大駒場祭にも、招ばれて行きました。いちょうがハラハラ散る季節に、東大の教室で、大勢の学生さんたちの前で、歌ったり、お話したり、手品まで見せたら大拍手、いちばん頭のいい人たちが行ってる学校とは思えませんでした。世の中変わってきてますねェ。
 歌手になって、大恥かきましたけど、若返ったことも確かです。
 磯部さんが言っていた晩年運が、まわってきたようです。
 年がおしつまって、十二月十二日、これまた思いがけず“ゆうもあ大賞”という賞をいただいてしまいました。
 徳川夢声さんたちがつくった“ゆう・もあくらぶ”が、ユーモアをふりまいた人に贈る賞だとのことですが、その年は、あたしの他にビートたけしさん、ロス五輪の私設応援団長の山田直稔さんの三人でした。「最高齢レコード・デビュー」が受賞の理由だそうです。
 赤坂の東急ホテルで、表彰式とパーティがあって、小さいコップと、十八金の耳かき、それにコアラの縫いぐるみをもらいました。
 この間テレビを見ていたら、年をとっても現役でバリバリやっている女優の中にあたしが出たので、びっくりするやら、嬉しいやら。杉村春子さん、淡谷のり子さん、山田五十鈴ちゃん、それにあたしです。
 あたしは昔から、誰もライバルだと思ったことないの。そういうこと、全然気にしない質なんです。人は人、自分は自分と思ってますから。
 こういう役を絶対やりたいというのもありません。何でもやります。来た役を、いかにふくらませて上手にやるか、それだけ。変な役でも、それをどうやってこなそうかと。こんな役できないなんて、一度も言ったことないです。役をもらえるだけ嬉しいと思っていますから。
 今年になってから『パンツの穴』(昭和60・東映・小平裕)というのに出ましたが、あたしは、ただ便所に行くってだけの役なんです。」浦辺粂子『映画道中無我夢中』河出書房新社、1985. pp.189-192.

   おばあさん女優のプロフェッショナル、浦辺さんは一度結婚はしているが、それは「夫の家に嫁入り」という意識はなく「ちょっと遊んでやろう」と金持ち夫の財産を消費しまくって別れた。子どもはいない。ギャンブルが大好きでお金があると競馬や麻雀などに使ってしまう。まことにいさぎよいシングルばあさんであった。

「気性が男ですね。自分では女性だと思っているけど、誰もあたしのことを女性的って言いません。なにかにつけて勝気だからかしら。つくすなんてことは、これっぽっちもしない、あたしはズボラなんです。
 あたしが夢中になるのは芝居だけ。
 今、八十二歳ですが、渋谷の家に一人で住んでいます。ときどきお手伝いの人が来て、掃除とか、洗濯はしてもらっていますが、別に不自由だと思ったことありません。近所の人が、よくしてくれますから。ゴミを出してくれたり、夜になると電気をつけてくれたり。近所の猫も、あたしの顔を見ると、「ニャーッ」っていうの。
 一人で死ぬのは淋しいっていう人がいますが、あたしは、そういうのありません。体がいうこときかなくなったら、病院へ行けばいい、いい病院へ入ればいい、それだけのこと。お金はなくても、それだけの覚悟をしていればいいと思いますよ。
 人間は、一人で生まれて一人で死んでいくもの、誰でも死ぬし、死ぬときは、誰でも一人なんだから。
 もし自分の家でバッタリいったとしても、しようがないですね。一度は死ぬんですから、いいですよ。死んじゃえば、わかりゃしないもの。あの世から、帰ってくるわけじゃなし。毎日が忙しいですから、ちっとも淋しいなんてこと、ありません。
 八十二歳になってから、一段と忙しくなって、今年は元旦から仕事で、毎年行っている箱根で麻雀ができなくて、メンバーから文句が出たくらいです。
 長生きして、つくづく良かったと思います。
 女優って商売は、たのしいですねェ。女優になって、ほんとによかったです。
 まだまだ無我夢中の映画道中、これからも一生懸命勉強いたしますから、どうぞ皆さま、かわいがってやってくださいませ。」浦辺粂子『映画道中無我夢中』河出書房新社、1985. pp.193-194.

 こういう生き方って、素晴らしい。

B.世界の成り立ち・秩序を訓示する神
   信仰とは、ひとつの原則・ひとつの教義を、心から守ると表明する行為だとすると、近代の論理は、合理的な個人の選択判断と、人類普遍の真理に従って統治を行うという原則になるわけです。それに対して日本政府、つまり伊藤博文は、それは西洋のキリスト教的世界観の応用であって、それとは文化伝統を異にする日本は、古代的なスメラギが絶えることなく存続してきたという神聖な血脈という独自原理を建てたわけです。明治末年の多くの日本人は、仏教に対しては、祖先崇拝と家の墓の慰霊の形式として受け容れていただけで、積極的な秩序原理を宗教の教義や理論に求める人は、ごく少数でした。そして御一新以後の社会変化は、多かれ少なかれ西洋文明の導入によるもので、一方で外来の新しい便利な文明を喜んで取り込みながら、自分たちの根にある非西洋的心性の不安定性を克服する契機を、どこに求めるのか?が明治20年代の課題でした。
   しかし、大日本帝国憲法が人民に指し示した国家像は、非常に壮大な、絶対的神のごとく(いやそれはまさに「神」だと言っていた)人の生きるべき道徳倫理を言葉にしていたのです。どうしてそんな大それた、役割を天皇という存在に担わせたのか?

「1935(昭和10)年の天皇機関説事件において、憲法学者美濃部達吉の学説が反機関説論者によって攻撃された際に一つの争点とされたのが、天皇の詔勅は批判の対象となりうるかという問題でした。詔勅批判は自由かという問題です。美濃部は、詔勅の責任は、それに副署した内閣総理大臣以下の国務大臣にあり、天皇は無答責であって、したがって天皇を輔弼する国務大臣の責任が問われる詔勅批判は自由であるとの見解をとっていました。
 しかし、大日本帝国憲法の下で国務大臣の副署がない例外的な詔勅がありました、憲法が施工された第一回帝国議会開会(1890年11月25日召集。11月29日開院式)を一か月後に控えて、1890(明治23)年10月30日に発せられたいわゆる「教育勅語」がそれです。天皇機関説事件において美濃部に対する取調にあたった主任検事はこの点を衝き、詔勅批判の自由を主張する美濃部を追求しました。
 なぜ「教育勅語」には内閣総理大臣以下の国務大臣の副署がないのか、その点を明らかにするために、「教育勅語」の成立過程を追跡し、それを通して天皇の「神聖不可侵性」が積極的具体的に体現された道徳の立法者としての天皇の本質を明らかにしたいと思います。
 大日本帝国憲法における天皇は、国家の元首として統治権を統合(「総攬」)する国家主権の主体でしたが、統治権の行使にあたっては「憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(第四条)ことが規定されていました。すなわち憲法上の天皇は定義上「立憲君主」でした。
 しかし、憲法は本来伊藤博文らが予定していた天皇の超立憲君主的性格を明確になしえていませんでした。第三条の天皇の「神聖不可侵性」は、天皇の非行動性を前提としていました。それは、法解釈上は天皇は神聖である、故に行動しない。故に政治的法律的責任を負わない、という以上の積極的意味をもたなかったのです。つまり、第一条に規定する統治の主体としての天皇と、第三条の天皇の「神聖不可侵性」とは、法理論的には両立しなかったのです。そこで憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」だったのです。「教育勅語」は、伊藤が天皇を単なる立憲君主に止めず、 半宗教的絶対者の役割を果たすべき「国家の基軸」に据えたことの論理的必然的帰結でした。
 以下の「教育勅語」成立過程に関する歴史的事実は、教育学者海後宗臣の古典的名著『教育勅語成立史の研究』(発行者海後宗臣、1965年)に全面的に依拠しました。このテーマに関する実証的研究としては、いまだに海後の著書を超えるものを知りません。
 「教育勅語」の起点となったのは、1879(明治12)年8月天皇が侍講元田永孚(ながざね)に命じて起草させた「教学聖旨」です。これは天皇の名において国民教育の方針を明らかにした文書です。これが「教育勅語」の起点とされる所以は、それを貫く論理がそのまま「教育勅語」の論理となっていること、それから、その起草者元田永孚が「教育勅語」の起草者の一人でもあるということです。
 ちょうどこの時期から、1872(明治5)年の「学制」以来の啓蒙主義的教育思想への再検討が政府の内外で始まっており、文部省においても道徳教育の重視の傾向が強まりました。「学制」発布と同時に、小学校低学年(下等小学2年)用に「修身」という教科は置かれたのですが、教材は主として翻訳書が使われ、授業は教材の内容を教師が口頭で説明する(「修身(ギョウギノ)口授(サトシ)」)の形で行われました。当時の「修身」は、知識の教授を目的とする教科に従属するものとみなされていたのです。    1879(明治12)年9月には「学制」に代わって教育令が制定されますが、教育令でも、当初は「修身」は列挙された諸教科中の最後に置かれていました。ところが、翌1880年12月には教育令が改正され、その際「修身」は諸教科中、筆頭に掲げられることになったのです。この間に、天皇の名によって示された1879年8月の「教学聖旨」に表れたような思想状況の変化があったことは容易に想像されるでしょう。
「教学聖旨」は、国民教育の基本方針を示した原論部分(「教学大旨」)において、教育の第一目的は、「仁義忠孝」を明らかにすることにあり、「智識才芸」を究めることは、それを前提として行われるという道徳主義的教育思想を強調します。そして、そのような道徳主義的教育思想の源泉は、天皇の祖先の教訓である「祖訓」と、わが国の古典である「国典」に求められます。これこそが「教育勅語」の公理と論理です。すなわち「教育勅語」のいう、天皇の祖先が忠孝の徳を立て、臣民が心を一にして世々その美を済してきた、これこそ我が国体の精華であって、教育の淵源もまたここに存するという論理と同じであるといってよいわけです。
  ところが、このような「教学聖旨」の思想が直ちに「教育勅語」に連なったわけではありませんでした。というのは、1879(明治12)年当時、政府部内にはこれに対して有力な反対があったからです。そのことは、同年内務卿伊藤博文の側近で内務大書記官であった井上毅によって起草され、伊藤の名において天皇に呈出された「教育議」という文書に明らかにされています。「教育議」は社会における「風俗ノ弊」(「制ノ敗レ」および「言論ノ敗レ」)は認めながらも、これを是正するために、維新以来政府が進めてきた文明開化政策を変更し、「旧事の陋習」に復することがあってはならないとして、元田の「教育聖旨」の思想には反対したのです。
   このような教育論争の背景には、かつて大久保利通在世中、大久保を擁立し、大久保の支持によって天皇の直接的な権力行使(いわゆる天皇親政)を実現しようとした元田ら侍講たちの天皇側近勢力と、大久保の後を襲って内務卿となり、かつての大久保の政治的役割を継承した伊藤を中心とする官僚勢力との対立抗争がありました。大久保によって束ねられていた宮中と政府とが大久保没後に分裂し、両者の権力闘争が顕在化したのです。それは士族反乱による内戦の終結後明治政府の中心勢力となり、その統合の主体となった親大久保勢力の分裂結果であったともいえるでしょう。このような宮中の天皇側勢力との政府の官僚勢力との政治的対立に由来する思想的対立(いわゆる「宮中」と「府中」とのイデオロギー的対立)が続いている限り、日本臣民全体を対象とする道徳に関する唯一絶対の意思形成を天皇の名において行うことは、きわめて困難でした。
  ところがこれを可能にし、また必要としたのは、国家体制の頂点と底辺とを媒介する役割を果たす地方長官(府県知事)からの要請でした。第一次山形有朋内閣の下で開かれた1890年2月の地方長官会議では、地方の民心をいかに統一し把握するかが問題となり、当時山県兼任内務大臣を補佐する内務次官として会議に出席していた芳川顕正―彼は、この年10月の「教育勅語」渙発時の文部大臣です―によると、「何らか道徳上の大本を立てて民心を統一せんことを急要とすといふ丈けの事は……各地方長官の一致して認むる所であった」(『その頃を語る』東京朝日新聞社、1928年所収)。そして会議は文部大臣に対して、「道徳教育の義に付建議」を提出するにいたったのです。「教育勅語」渙発は、これを契機として急速に具体化するのでした。
  このように当時の地方長官たちが「徳育涵養」の必要を痛感した理由について、建議は「現行の学制に依れば、智育を主として専ら芸術智識のみを進むることを勉め、徳育の一点に於ては全く欠くる所あるが如し」としています。そしてその結果、学童生徒の秩序意識が弱まり、反秩序意識が強まっているとしています。小学校に入った学童も「忽ち其知識芸術に誇り、父兄を軽蔑するの心を生じ、軽佻浮薄の風に長ず」とされました。また中学校に入った生徒は学業の半ばを終えないものが「ややもすれば天下の政事を談じ、時に或は自ら校則を犯しながら、職員処置の当否を鳴らし、みだりに抗争紛擾を事とするものあり」とされたのです。
  そしてこのような初等中等教育の現状認識は、「此情勢を以て荏苒数位する時は、実業を重んぜずして、みだりに高尚の言を為し、未熟の学術智識に依て僥倖を事とするの風を長じ、長上を凌ぎ、社会の秩序を紊乱し、終に国家を危ふくするに至らんとす。是れ智育の一方のみ進みて、徳育の兼ね進まざるより致す所の弊なり」という危機感にまで昂進しています。
  この地方長官会議の問題提起は、閣議の関心を惹き起こしました。特に当時の首相山形有朋は、かつて参謀本部長として1882(明治15)年の「軍人勅諭」を起案した経験から、教育においても勅諭によってその基本方針を明らかにすることを考えました。また当時首相を立法面で支えた法制局長官井上毅などもこれに同調します。そして閣議では学童生徒のために一片の「箴言」を与え、これを日夜誦読させ、心に銘記させる措置を施すべきことを決定しました。そして天皇から文部大臣に対して「箴言」の編纂が命じられました。その後まもなく文部大臣の更迭が行われ、山形の推薦によって、山県兼任内相の下で内務次官を務めた芳川顕正が文部大臣に就任します。こうして芳川文相就任を契機として「教育勅語」の起草作業が始まるのです。」三谷太一郎『日本の近代とは何であったかー問題史的考察』岩波新書、pp.224-231.

 「徳育の涵養」という要請が政府の中に起こってくる時期は、どういう状況なのか?明治10年代末までは、体力のない新政府は、旧幕時代の制度を「御一新」する改革をすすめ、西洋の技術知識を急いで導入し、反政府不満勢力を押さえつけ、経済と軍隊を強化することのみに必死だった。その頃には「徳育の涵養」にまで手が回らなかったし、維新を導いた国学や水戸学のような反体制イデオロギーは、現実の開化路線との矛盾が大きくなって、廃仏毀釈と西洋崇拝が並行し、若いインテリはこぞってキリスト教に流れるという、いわば思想的な混とん状態にあった。
  それが一応収まって、国会開設、憲法発布という段階に達したとき、庶民の生活を明治国家体制に統括する役割を負った地方長官たちが、行政をすすめる上で大義名分が欲しくなった。江戸時代そのままの意識と生活を続けていた大多数の人民は、新しい政府の政策に素直に従わない、ときには自由民権を叫んで一揆を企てる。警察力や軍隊で強圧的に抑えても、それは一時的な秩序回復で心から従っているとはいえない。地方長官たちは不安にかられていた。お上に従順に従うことが人として道徳的に正しい行いなのだ、という具体的な文言「箴言」を、天皇の名で下付してほしい。それを子どもたちに日々暗唱し口に出させ、徹底的に刷り込むことが「徳育の涵養」の政治的動機だったと考えてもよいのだろう。
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