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ケネス・クラーク「ザ・ヌード」を読む7  1989年夏の思い出

2017-09-17 12:59:59 | 日記
A.ルノアールの浴女
 日本の夏は蒸し暑く、照りつける太陽に少しでも涼をとろうと昔の人はいろいろ工夫した。しかし今は冷房の室内にいればなんとか汗をかかずに済む。その分屋外では、年々過酷な暑さに熱中症になったり、立っていられないような人が出る。人間はふだん裸で暮らさない。赤道直下と雪の降る気候では、着衣の量も質も変わるのは当然だが、気温の高いときでもむやみに裸になるのは社会的に問題がある。人が全裸になっても許されるのは、入浴と密室のSEX場面、それに裸を商品化する風俗営業の中だけだろう。しかし、西洋の絵画のなかでは人物はときに全裸になっている。それを絵に描いて公然と展示したりするのは、人の身体が美的に鑑賞するに値するという、特殊な美意識がなぜか文化的に認められているから、という他ない。
 それも西洋では、現実の社会的描写ではなく、神話や伝説に取材した架空世界の物語の場面として、登場する画題のひとつとして、はだかが描かれていた。その限りでは、どんなにリアルに裸体表現がなされていようとも、人びとは自分の生きている世界のなかに起こる出来事とは思わないから、ひとまず安心して鑑賞していた。しかし、19世紀になって現われたいわゆる「印象派」の運動のなかで、いきなり自分たちの日々の生活と同じレベルで、女性の裸体が提示されたら、良識を誇る人からまず、動揺と混乱がどんどん追いかけてくるスキャンダラスな事態が生じた。
 どうして絵画作品として価値があると批評家や一般鑑賞者に推された作品なら問題がなくて、それに抵触する美的価値以外の要素があるとスキャンダルになるのか?それはマネだけの問題ではなかった。

「《オランピア》は若い頃のカラヴァッジオの様式に立ち、しかも物の質感に対するいっそう鋭い感覚によって描かれている。だがそれだけのことならば別に美術愛好者たちを刺激しなかったであろう。彼らの憤激を買った真の理由は、疑いもなく、ルネッサンス以来ほとんど初めて、裸体の絵が実在の女性を実際に見かけられそうな環境のなかに描き出している点にあった。クールベの女たちは職業的モデルであって、その肉体が写生的に表わされていたとしても、世に認められている約束事に従って一般に森林地帯の泉のほとりに置かれていた。《オランピア》はある特定個人の肖像で、しかもその興味深くはあるが鋭く性格を発き出した肉体は、まさに人がそこへ行ったら見られるであろうというような場所に置かれている。その結果、美術愛好者たちは自分らが生身の裸形によく接する環境を突然に思い出したわけで、彼らが慌てたのはもっともなことであった。今日もはやわれわれは《オランピア》から衝撃をうけないとしても、彼女が例外的な存在であることに変わりはない。はだかの身体にきわめて個性の強い顔をのせるということは、裸体像の前提条件をいっさい覆すことに他ならず、マネの成功はもっぱら画家としての完璧な才能と技巧にもとづくのである。彼自身もこれほどきわどいバランスの芸当など二度と繰り返せるものでないと感じたのであろう。なぜなら彼はその後二度と、裸婦を自分の主要作品の主題に選ぶことをしなかったからである。しかしマネは裸婦というモティーフがその長期にわたる衰頽にもかかわらず、時代に通用する芸術として救済し得ることを示したわけで、ふたりの画家が彼に従い、サロンの裸婦のまやかしに抗議することになった。その第一はドガである。ドガは若い頃アングルのそれのような女性モデルの美しいデッサンをつくっていたが、にもかかわらずこの種の美が当今もはや致命的な危機に瀕していることを理解していた。第二のトゥールーズ=ロートレックの場合は、エンネルの偽善的な肉のまろやかさに対する反発はさらに激しく、その鋭敏な眼はサロンお気に入りの画家たちが何とか抑制しようと苦労していた女体の抑揚や贅肉を喜んで正確に記録した。はだかの身体を描き出した彼の溌溂たる簡潔な表現は、まさしく彼の心とわれわれの心の奥底に裸体像の概念が存在しているという理由によっていっそうの力を得、またわれわれの感受力はこの概念がすでにどれほど無力となっていたかを想い合わせることによって高められる。
 一八八一年ともなると人びとの眼にヴィーナスはアポロンが蒙った運命を繰り返しているかに映ったかもしれない。つまり彼女は軽んじられ、変造され、断片化されてしまって、アカデミー派の冷たく堅苦しい構成とパリ生活(ラ・ヴィ・パリジェンヌ)がもたらすさまざまの卑俗な刺戟挑発の間で二度とかつての輝かしい完全性をもって人々の想像力を占めることがなかろうと思われたかもしれない。この年、四十歳のルノワールは、妻と連れ立ってローマとナポリに新婚旅行に出かけたのであった。
 ルノワールについて書く人は誰でも彼の女体鑚仰に言及し、女体がこの世になかったら自分はまず画家になっていなかったろうという意味の彼の言葉をひとつ引用する。しかし、読者は、彼には裸婦の絵というものが四十歳までごくわずかで、稀にしか描かれていないことを思い出さなければならない。初めて名声を得たものは現在サン・パウロ美術館にある《浴女とグリフォンテリアの犬》である。これは一八七〇年のサロンに出品され、ルノワールにとって以後二十年間に享受するただ一度の世俗的成功を収めた絵であった。彼はいつもの率直さから、自分の絵の起源となるものを強いて隠そうとしなかった。そのポーズは《クニドスのヴィーナス》の版画からとられ、光の当て方や物のつかみ方はクールベから出ていた。この相反する発想源は、以後の半生にわたって彼の心を占めるに至る問題が何であったかを示してくれる。それは、ギリシャ人の発明になるあの完全無欠の性格と秩序とをいかに女性裸体像に与えるか、同時にこのような秩序を女体という熱っぽい実在を愛する感情といかに結びつけるか、という問題であった。《浴女とグリフォンテリアの犬》は確かに感嘆すべき作品ではあるが、そこではまだ二つの構成要素が調和的に結びつけられてはいない。古代的ポーズがあまりにあからさまだし、クールベ様式の土臭さがルノワールのものである太陽のような気質を表わすに至っていないのである。
 もしルノワールがつづく十年間に印象派理論に熱中しなかったならば、いま述べたような矛盾をすぐにも改めたであろうという推測が成り立つかもしれない。しかし印象主義も当初の理論一点張りの条件下にあっては、人為的でしかも形態を主眼とする主題をたやすく受け入れることができなかった。裸体像とは一種の観念的芸術であって、観念の最初の投影たる輪郭線と密接に結びついている。そしてルノワールを含めて七〇年代の印象派の人びとは、輪郭線は実在しないということを証明しようと苦労していた。そこでルノワールは人物を描くとき、光と影の斑点でもって描線をまだらにして輪郭線を解体させた。だがこの時期においてもヨーロッパ伝統の本能的な理解から、彼はヴェネツィア派の偉大な画家たちが色彩を手段として形態を表わしていたことを知って、二点の裸体画を制作した。ティツィアーノの《ダイアナとアクタイオン》の部分図と呼べそうなモスクワの《アンナ》とバーンズ・コレクションの《トルソ》である。これらの絵では、輪郭線が形態の重ね合わせ(オーヴァーラップ)と背景の色彩分割による筆触によって細分化されているが、肉付けは堅固であり、ルノワールがこの手法で一連の傑作を描きつづけてはいけない理由は別になさそうにみえる。しかしこれは、裸体とは円柱とか卵のように単純であらねばならぬとする彼の確信を満足させなかった。そして一八八一年、つまり印象主義の可能性をすでに底まで使い果たした時点に至って、いま述べたような裸体像の概念の基盤たるべき範例を追求し始めたのである。彼はこれをファルネジーナのラファエㇽロのフレスコやポンペイ、ヘルクラネウムから出た古代壁画に見出した。その直接の結果が、同じ歳の末ごろにソレントで描かれた《金髪の浴女》という題の妻の絵で、真珠のように青白くて単純な裸身が、杏子色の髪と暗い地中海を背に、古代絵画に出てくるような確固とした輪郭をとっている。ラファエㇽロの《ガラテアの勝利》やティツィアーノの《水から上がるヴィーナス》に似て《金髪の浴女》は、何か魔法のレンズを通してプリニウスの激賞した失われた傑作のひとつを目にしているかのような錯覚をわれわれに覚えさせる。そしてわれわれはここに改めて、古典主義とは規則の順守によって達成されるものではなく――なぜなら若いルノワール夫人の胸囲や胴回りの寸法は《クニドスのヴィーナス》と非常にかけ離れている――肉体的生命をそれ自身が静かな高貴を表わせるものとしてありのままに受け入れれば達成されるということを、納得するのである。
 《金髪の浴女》を鼓吹した啓示的な瞬間はフランス帰国後まで長つづきせず、つづく三年間を、彼はかつてナポリ湾のほとりで本能的に解決していた問題に取り組みつづけた。自己の総力を結集するため、彼は大作をひとつものにしようと目論んだ。グージョンからアングルに至る古典的フランス美術のあらゆる特質を具備すべき、水浴する少女たちの大構図である。全体のリズムと幾つかのポーズはヴェルサイユにあるジラルドンの浮彫《ニンフの泉》を発想源としていて、この彫刻的概念は完成作のためつくった多くの習作のすべてに痕跡を留めている。それが最も明瞭なのはルネッサンスのそれに匹敵する下図(カルトン)と言うべき大型のデッサンで、ここに見られる浮彫的感覚や描線の流れがまったく申し分ない出来映えであるため、なぜルノワールがこれらを変更しなければならなかったのか私には合点がゆかない。とはいえ完成作でも、各人物の間合いの取り方には改めて苦心が払われている。その仕上げは等しく丹念であり、色調にブーシェを思わせるものがあるとはいえ、絵具の使い方に何らブーシェの装飾的安易さが見当らない。光が当たっている幾つかの箇所では、入念に塗りあげたエナメルのような表面が初発的な歓びの感覚を抹殺してしまったかに見えそうであるが、過ぎゆく雲とか思いがけぬ光の反映がこうした乾いた転調の部分をやわらげることになり、結果として画面全体はゴブラン織りのように見る目を愉しませてくれる。
 ルノワールは《浴女・大(グランド・ベーニューズ)》の制作に一八八五年から一八八七年までかかり切った。これを傑作と見るか莫大な意志の行使と見るかはともかく、この仕事は彼をさまざまな不安や懸念から解放した。つづく二十年間につくられた彼の裸婦像も鋭敏な人の眼から見ればなお苦心と計算の跡を留めているが、それらは巧妙に隠されている。これら魅惑的な生きものたちは、見るからに自然で、まったく心の赴くままに流れの岸に腰をかけ、身体を乾かしたり水のかけっこをしている。彼女らは古典的規準よりも幾分肉付きが豊かで、アルカディア的な健康に恵まれている趣がある。ルーベンスのモデルたちとちがって、その皮膚は普段の生活では着物を着ている肉体の皺や襞をけしてもつことがなく、動物の毛皮のようにしっくりと見についている。自分らの裸身を意識することなく受け入れている点、彼女らはおそらくルネッサンス以来描かれてきたどんな裸体像よりもギリシャ的であり、真実と理想の間に保たれた古代的均衡の域に最も近づいている。
(中略)
 ルノワールが一八八五年から一九一九年の死までにつくった裸体像の数々は、大芸術家がこれまでヴィーナスに捧げた最も美しい供物にかぞえられ、この長い章に出て来るあらゆる糸をひとつに縒り合わせている。プラクシテレスとジョルジョーネ、ルーベンスとアングルは、たとえ互いに異なっているにせよ、すべてルノワールを自分の後継者に見立てたであろう。彼らもまた彼のように、自身の作品について、とびきり美しい個人の姿を巧みに描写しただけのものだと語ったであろう。それが芸術家のとるべき語り口というものである。しかしながら実を言えば、彼らはすべて記憶と必要と信念との合流、つまり昔日の芸術作品の記憶と、自分らの感受性が必要とするものと、女体とは世界の調和ある秩序のしるしであるとする信念との合流から、自身の心のなかに生まれ成長した何ものかを追求していた。彼らがこれほど熱烈に「自然のヴィーナス」に瞳を凝らしたのは、近より難い彼女の双子の姉妹の姿をすでにちらりと垣間見ていたからである。」ケネス・クラーク『ザ・ヌード 理想的形態の研究』高階秀爾・佐々木英也訳、ちくま学芸文庫、2004.pp.265-274.

 ルノワールは、日本人に好まれる西洋の画家としてゴッホやモネ以上に知られている。今はだいぶ減ってしまったが、ゆったり寛げる喫茶店の名前にも使われていた。ルノワールの描く世界は、19世紀後半のパリ周辺の中流ブルジョアの平和な日常生活風景が多く、主題や意味にとらわれず色彩やタッチの揺らめきを愉しめばよい絵画として、通俗性と大衆性をもっているから、特に美術に関心がない人でも抵抗なく見ることができる。とくに女性像は人気があり、裸婦もお風呂で明るく遊んでいる感じが好ましいというわけだ。しかし、もちろんルノワールはそんな単純な画家ではないのだが。
フェミニズムからすれば、女性の裸体が美であると言う視線自体が、男そのものの卑猥な本質になるのだろうが、ルノワールやルーベンスが追及したのは、そこを少しだけ超えたものであった。



B.かつて存在した社会 今は消えた幻
 1989年夏、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が壊れて、「東側」社会主義国の政権が倒れ、次々と体制変革が現実になる直前、ぼくは当時の西ドイツ、ルール地域の工業都市に住んでいた。チェコやハンガリー、あるいはポーランドの反政府運動が盛んになって、東側からの逃亡者が相次ぎ、いろいろな変化の兆しはあったが、まさか「東側」の社会主義体制自体がガラガラと崩壊するとはドイツの人たちも思っていなかった。その夏、ヨーロッパを旅していた大学生がいて、「東側」も覗いてみようと「野心的な」楽しい旅をしていた、というお話。

「時代の音色に耳を澄まして 「冷戦後」の終わり:月刊安心新聞 神里達博
 個人的な話から始めたい。
 1989年夏、大学三年生だった私は、友人2人とともにヨーロッパを旅した。限られた予算のなかで、できるだけ多くの都市を回るというのが、私たちの方針であった。
 この旅の後半では、社会主義体制の国を訪れるという、「野心的な」プランも含まれていた。最初に入った東側は、ハンガリーである。
 私たちは鉄道で、ウィーンからブダペストに向かった。途中、列車に自動小銃をもった係官3人が乗り込んできて、パスポートを見せろと言われた時は、正直怖かった。だが、ブダペストに到着すると、想像以上に活気があり、ほっとした。
 私たちは国営の旅行会社に「民泊」を斡旋してもらい、一般家庭に、一晩だけお世話になった。3世代が同居するその家族は、言葉がまるで通じないのに、とても親切にしてくれた。ハンガリーは何を食べてもおいしく、社会主義も悪くないかも、などと思った。
 しかし旅の最後、東ベルリンに入った私たちは、愕然とした。東西ベルリンを分かつ検問所「チェックポイント・チャーリー」から東側に入ると、まず一定額を強制的に両替させられた。街の広場のベンチには、無気力な表情の人たちが坐っていた。せっかくだから声をかけてみようと近づくと、すぐに逃げてしまう。秘密警察「シュタージ」がどこかで監視していたのかもしれない。
 店に入っても、まともな商品はない。仕方がないので喫茶店に入り、コーラ・フロートを頼んでみた。にこりともしないウェートレスが、コーヒー牛乳のようなものを持ってきた。英語が通じなかったのかなと思った。だが飲んでみると、アイスクリームが全部溶け、完全に気の抜けたコーラに混じっていたのだ。
 この社会は、もう先がない、私たちはそう思った。
 夢のような夏休みも終わり、大学の講義が始まったころ、驚くべきニュースが飛び込んできた。あの「壁」が崩れたというのだ。その後は、あれよあれよという間に、ヨーロッパの社会主義政権が倒れていった。私たちは、ハンマーで壁を叩き壊す人々の映像を見ながら、人間の「底力」を信じられる気がした。そして当然の類推として、朝鮮半島の二つの隣国も、ほどなく統一すると思ったのである。
◎           ◎            ◎ 
 あれから30年近くが経ったが、振り返ってみれば冷戦の終結は、私たちの国にとっては、どうやらあまり有利ではなかったようだ。
 そもそも「鉄のカーテン」の存在は、西側諸国にとっては、過度な資本主義化を抑制する作用を持っていた。例えば、今から考える当時の自民党、特に田中派は、開発独裁の匂いが強かったものの、地方への冨の再分配を強く進めたという点で社会主義的であったし、東側の諸国とも様々なルートでつながりを維持していた。
 そのような多元的なパイプと、日本国憲法というツールを上手に使って、当時の政権は、アメリカに対して主体性を確保すべく、踏ん張っていたという側面は否定できない。
 当然それは米国から見れば、本音では不快であっただろうが、東側と対峙する最前線でもある日本をむげにできない状況でもあったのだ。
 だが、グローバル化する世界に投げ込まれてからの日本は、ゲームのルールが変わったことになかなか対応できないまま、相対的な地位を下げ続けた。冷戦という外的条件に、よほど過剰適応してしまっていたのだろう。良くも悪しくも平等だったこの国は、気づけばすっかり格差が広がった。一方で古い大企業は内部留保を増やすばかりで、新しい価値を生み出すことに苦戦している。
◎            ◎            ◎ 
 ところが近年、国際社会には、また新しい風景が出現しつつある。それは「冷戦後の終焉」を示唆するものだ。今週採択された北朝鮮に対する制裁も、当初案こそ強硬な内容であったものの、最終的に米国は、中ロに対して大幅な譲歩を余儀なくされた。
 冷戦後の米国一強体制は、すでに「9.11」のころから揺らぎ始めている。今後、、いかなる時代がやってくるのか、さまざまな議論があるが、少なくとも、多極化に向かっていることは間違いなさそうだ。
 北朝鮮の問題も、表面的には冷戦期に片付かなかった宿題が、一周遅れで顕在化しているように見えるが、実は、今後、核保有国の拡大という、危険な時代が到来することを予兆する現象なのかもしれない。
 89年は、昭和天皇の崩御とともに「平成」が始まった年でもある。冷戦後の世界を私たちは、平成時代の長さと同じだけ生きてきた。その「冷戦後」も終わり、別の時代が始まろうとしているなか、奇しくも、まもなく日本の元号も改められる。あの冷戦期に似た季節が、再びやってくるのだろうか。
 むろん、冷戦時代と現代は、さまざまな条件が異なる。自由主義と社会主義の対立という構図が単純に復活するとも思えない。だが少なくとも、今後の日本の進む道を考える上で、当時の政治家や官僚たちが備えていた、懐の深さや二枚腰の対応について、公平な目で再評価することは意義があろう。立ち現れつつある新時代の国際力学は、かなり重層的で複雑になる可能性が高いからだ。
 歴史は、全く同じことは起きないが、似たようなことは何度も起こる。それは主題が形を変えて繰り返される変奏曲のようだ。時代の奏でる音色の変化に、敏感でありたい。」朝日新聞2017年9月15日朝刊13面、オピニオン欄。

 これを読んで、ぼくも似たような記憶が蘇って懐かしかった。ドイツで自家用車をもっていたぼくは、あちこちEU内を走り回ったが、ベルリンの壁が壊れた冬に、車を飛ばしてベルリンに行った。西ベルリンから「チェックポイント・チャーリー」を通って、東側の目抜き通りウンター・デン・リンデンを歩いた時の印象は、神里氏も書いているように貧寒でくすんだ街路は西側と何もかも対照的だった。そのあと、チェコや東ドイツにも行ったのだが、プラハではやはりホテルは満室と言いながら国営旅行社の職員が、個人的に民泊を紹介してくれた。現実の社会主義の社会は末期的状況だったのだが、今考えるとあれは何だったのだろう?「東側」が存在していた時代はもう遠い過去の記憶でしかない。しかしそれが消えたことは、よかったことばかりともいえない気がする。
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