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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

女優列伝Ⅷ 赤木春恵さん2  満州と敗戦

2017-08-18 22:32:21 | 日記
A.戦争に負けるとどうなるか、考えたこともなかった
 1945年は昭和20年、日本が大戦争に負ける記念すべき夏を迎えるのですが、その年の2月に大映京都の映画女優だった21歳の赤木春恵さんは、先に助監督を辞めて満州で慰問劇団をしている兄を追って、満州に向かったのです。本土は空襲が激しくなり映画どころではなくなっていました。満州はまだ関東軍の支配下にあり、本土よりずっと安全で赤木さんには生まれた土地でもあったのです。しかし、8月に敗戦、そしてソ連軍の侵攻で状況は一変します。

「列車をいくつも乗り継いで北へ北へと進んでいたわけですが、乗り換えの駅には必ず司令部がありました。どこの駅でのことだったかは忘れましたが、「どこからきたのか」と聞かれました。
 私たちが東満地区の春北から逃げてきたと答えると「ああ、よかったね。春北は全滅したよ」と聞かされました。私たちが慰問にいっていたあの村は、ソ連が越境してきて、全部焼き払われたというのです。
「君たちも出発がもう少し遅れていたら、どうなっていたかわからなかったですよ。本当によく助かりましたね。間一髪でしたよ」といわれました。
 私たちはただぞっとしながらその言葉を聞いていました。
 三日間かかって、ようやっと新京に辿りつきました。日程通りだともっと北上しなければならなかったのですが、ここまできたら家(ハルビン)に帰りたい気持ちが強くなってしましました。劇団員全員が同じ気持ちでした。
「軍だって後でこのことを説明すればきっとわかってくれるわよ。だから、一度家へ帰ろうよ。そこであとのことは考えればいいわよ」ということになりました。
 このときも私たちは正確な状況がまったくわかっていませんでした。誰に聞いても詳しいことは教えてくれないし、知っている人もいなかったのです。みんなが混乱していたのです。
 列車も北上するのはガラガラでしたが、南下する列車には兵隊さんも馬もいっしょくたに乗っていました。「どこへいらっしゃるんですか」と列車の中の兵隊さんに聞くと、「南方へいきます」とおっしゃるので、また南方で戦われるのかと思うと兵隊さんたちが不憫でなりませんでした。それで、「大変ですね」とホームで歌をうたって送り出したりしました。南へ行く列車には一般の人たちもいましたが、それでも私たちは南下しようなんて考えてもみませんでした。
 どうにかこうにかハルビンに辿りついたのは、国境近くの村を出てから五日目のことでした。昭和二十年の八月十四日のことです。
 ところがハルビンは騒然とした雰囲気など微塵もなくて、天国みたいでした。ここへ辿りつくまでのあの騒ぎは何だったんだろうと思ったほどです。そこで、最初に聞いたのが、「明日大事な放送があるから、必ず聞くように」との言葉でした。しかし私たちは軍の慰問を途中で引き揚げてきているし、大慌てで荷物を置いて逃げてきてしまったりで、大事な放送といわれても、まったく気が回りませんでした。翌日、放送のことを忘れて兄が劇団を作るときにお金をお借りした方に、もう少しお返しするのを待ってくださいと頼みに出かけました。
 そのお宅につくなり、そこのご主人がおっしゃるのです。
「今はそれどころじゃないから、ちょっと待ってくれ。陛下の大事な放送がこれからあるから、それを聞いた後でゆっくり話をしましょう」
 そして「あんたも放送を聞きなさい」といわれて、親戚の人や近所の人が集まっているお座敷に上げてもらいました。でも、でも、その放送はザーザー、波のような音がするし、言葉も途切れ途切れで、何をいっているのか私にはまったくわかりませんでした。何か大変なことがあったらしいという雰囲気は感じましたが、放送が終わって、数秒あったでしょうか。そのご主人がポツンといいました。
「日本は負けました」
 その言葉が合図だったように、座敷にいた人たちが一斉に泣き出したり話し出したりし始めました。ところが二十歳そこそこの私はまだ「負けた」ということがピンとこずに、キョトンとしていただけでした。日本が負けたら、どんなことになるのかがわかっていなかったのです。
 座敷の騒ぎが少し落ち着いてから、ご主人は私に、
「あんたがどんな用事できたかはわかっています。でも、そのことはもうどうでもいい。私たちですら日本に無事帰れるかどうかさえわからないんですから。借金のことはみんな忘れて、とにかくどうやったら自分が生き残れるかを考えなさい」
 と、いってくださいました。
 私は戦争が終わった実感よりも、「これで借金がなくなったんだ」と肩の荷がおりた気がして、ほっとしていました。家へ帰る道々、今から思えば不謹慎なんでしょうが、「借金がなくなってよかった、よかった」と思いながら歩いていたのを覚えています。
 それからは今までに想像もしなかったような生活が始まりました。そのころは内地に関する正確な情報がありませんし、人々がみんな混乱しきっていましたから、ずいぶん変な噂が流れていて、陛下が自決なさったなんていうのもあったぐらいでした。
 しかし、ハルビンでは日本が負けたからといって、すぐに日本人が苛められるようなことはありませんでした。蒋介石の「一般の日本人にはなんの罪もない。だから、危害を加えてはいけない」という放送があったそうで、中国人は私たちにとても親切にしてくれました。帰国できるあてはまったくありませんでしたが、そのときはまだ平和な生活を送っていました。本当に大変になったのは、まもなくソ連軍が進駐してからのことです。
 私たちはハルビンでは北京旅館という、ホテル形式のアパートの一階に住んでいました。その北京旅館の一部がソ連軍の宿舎になってしまったのです。ソ連軍が進駐してきてからは日本人はみんな五階に追い上げられて、三階までソ連の兵隊さんが入ってきました。それは怖くて怖くてたまりませんでした。ソ連兵はいままで見たこともないような体の大きい男たちでしたし、街の噂では、ソ連兵はとても凶暴だということでした。強姦でもされたらと思うと、私たち女性は買物にいきたくても階段が下りられません。隣室へいくのもヒヤヒヤでした。下にはソ連兵がたくさんいるわけですから。」赤木春恵『私の遅咲き人生』講談社、1994.pp.61-65.

 敗戦後の満州で何が起きていたのか、さまざまな記録や証言がありますが、その全体像はいまだ正確にはわからない。どこにいて、どういうふうに逃げたのかで、生死が別れたし、日本人でも軍隊にいたか開拓団にいたのか都市部で商売をしていたか、男か女か、によって運命は違いました。赤木さんの兄は軍の慰問などの劇団を主宰していたのですが、赤木さんが参加するとすぐ徴兵されてしまう。敗戦直前、満州東部の町に公演に行っていた赤木さんたちは、軍の指示で急いで当時の首都新京(長春)方面から朝鮮に逃げる列車に乗ったのですが、思い直して家のある逆方向、北のハルビンに戻ります。そして約1年以上、敗戦国の難民となって生死の境を生きることになってしまったのでした。

「終戦後、ハルビンには奥地からどんどん開拓団の人たちが集まってきていました。みなさん恐ろしい思いをして、ようやく辿りついた方ばかりです。ハルビンにもともといた私たちはまだよかったのです。ここに辿りつくまでに、子供を死なせた人やどうしようもなくて中国人に預けてきた人など、つらい話をたくさん聞きました。子供が泣くとその鳴き声で敵に発見されるので、やむなく自分の子供の口を押えて殺してしまったという話を聞いたときには、胸が裂かれるような感情を経験しました。いまでも中国残留孤児のニュースに接すると、胸が痛んでなりません。
 そういう方たちの収容所というのか宿舎というのか、それがハルビンの郊外につくられていました。そこに劇団のみんなと慰問にいったことがありました。少しでも慰められたらと考えたのです。ところがそこから戻ってきて一週間くらいたってからでしょうか、ゾクゾクしてきて、あっという間に三十九度くらいの熱が出てきました。最初は風邪をひいたと簡単に思っていました。しかし解熱剤なんて手に入りませんから、熱はなかなかひいてくれません。高熱で意識が朦朧とした状態が数日続いていましたが、あるときおなかや背中の小さなバラ色の斑点に気づきました。発疹チフスだったのです。収容所でうつされたのでしょう。着ていた服に一匹シラミを見つけて、あっと思いました。
 いまの若い人にシラミといっても、「何、それ?」なんていうものでしょうが、あの頃は発疹チフスは命取りの病気でした。当時収容所では発疹チフスが流行っていたんです。衛生状態は悪かったし、みんな体力が弱っていましたから、かかってしまうと本当にバタバタと死んでいたのです。病院はありませんでしたが、小学校が発疹チフスの隔離病棟になっていて、患者さんはみんなそこに収容されていました。
 私は発疹が出ないうちは高熱でうなされながら、自室で寝ていました。そのときに不思議な見舞いを受けたことがありました。以前、中国の好来鴻(ハオライウー)歌舞劇団という劇団にアルバイトで出演したことがありました。ブロークンな中国語でしたが、発音がきれいでしたから話があったのです。私が病気だと聞いて、その劇団の二枚目の俳優さんが見舞いにきてくれたのです。そのときの土産がヤマバトでしたが、これは食べて栄養をつけるようにという意味ではありませんでした。
「肺炎などで高熱が出ているときは、生きているニワトリの胸を割いて、それをパッと患者の胸につけると、ニワトリが死んでいくまでに熱を奪ってくれて助かると中国ではいわれています。残念ながらニワトリは高価で買えなかったが、ヤマバトをもってきたのでこれからすぐに試してあげましょう。すぐに熱が下がりますよ」といってくれました。
 ヤマバトでもその頃には手に入れるのは、さぞ大変だったでしょう。俳優といってもそれほど豊かではない彼が、きっと無理をして買ってきてくれたのだろうと思いました。でも私はその話を聞いただけで、気持ち悪くなってしまいました。生きたハトを割いたものを胸にのせる……気持ち悪くて気持ち悪くて「いやだ、いやだ」と恐怖で大声をあげていました。
 しかし兄嫁や劇団の人たちは、
「兄さんが戻ってこないのに、死なせるわけにはいかない」
「みんなで元気で日本に帰るんだから、良いといわれることはなんでもしたい」
 と彼にやるように頼んでしまったのです。そして、いやがる私の両手両足を押さえ、目隠しをして、その人のいうようにやらせました。私は高熱で朦朧としていましたが、それでもヌルッとした感触ははっきりわかりました。自分の鼓動なのかヤマバトなのかはわかりませんでしたが、ドドッドドッという音がしたような気がしました。そのうち意識がなくなり、次に気がついたときには体を乾いた布で拭かれていました。不思議な体験でした。
 それでも熱は引きませんでした。その翌日には発疹が出て発疹チフスと分かり、隔離病棟になっていた小学校に収容されたのです。教室が病室になっていて、一部屋に粗末なベッドがずらっと並び、二十人か三十人くらいの人が寝ていました。全員が発疹チフスです。ある朝、目が覚めると隣のベッドが空いています。どんどん死んでいったのです。なぜか男の人のほうがもろいようでした。
 「絶対死なない、死んでなるものか。絶対日本に帰るぞ」
と、私は心のなかでなん度もなん度も自分自身にいい聞かせていました。朦朧としていましたが、それだけははっきり覚えています。その心の張りが、私を生かしてくれたのかもしれません。
 (中略)
 病院には日本人は誰も見舞いにきてくれませんでした。こようと思えばこれたのでしょうが、誰もきてくれませんでした。発疹チフスはうつる病気でしたから、みんな怖かったのでしょう。でもあのハトをもってきてくれた青年だけが、一度だけ見舞いにきてくれました。白いハンカチを口に当てながら、見舞いにと小さな植木鉢をもってきてくれました。優しい青年でした。
 治療らしい治療は受けなかったような気がしますが、注射はしてもらっていました。栄養を補給するためのものだそうでした。生生きられるかどうかは、本人の生命力にかかっていたのです。でも、そのうちなんだかわからなくなってしまって、意識のない日がなん日も続きました。
 それが、どういうわけか、助かったのです。気がついてみたら、熱が下がり始めていました。そのときにはガリガリにやせきっていましたが。なん日間入院していたのか、はっきりはわかりません。私にはとても長く感じられましたが、一か月くらいだったでしょうか。退院のときには、本当によく助けてくれたと心から感謝しました。当時、死ぬことはごく当たり前のことでしたから。
 私は一度死んだ人間だ」と思っています。だから、心底怖いものは何もないと思っています。」赤木春恵『私の遅咲き人生』講談社、1994.pp.79-84.

 旧満州国の中央を南北に貫く南満州鉄道は、日本が建設した基幹路線で「アジア号」という特急列車が有名でした。入口の遼東半島切っ先の都市大連から、瀋陽、長春、哈爾濱(ハルビン)とつながる満州の大動脈、日本が支配していた世界は、あっという間にソ連軍に制圧されました。満州にいた日本人は戦争に負けると考えていなかったし、米軍に空襲される本土より満州は安全だと信じていた。確かに7月までは、日本は中国とは戦争をしていましたが、ソ連とはしていなかった。戦争に負けたらどうなるかなど、まったく想像もしていなかったのです。



B.考えるスパン 地球温暖化問題
 ぼくたちの素朴な実感として、春夏秋冬の穏やかな自然が毎年変わらぬ気候にとりまかれて日本は平和だ、なんていっていられなくなっている年々の「異常気象」「自然災害」である。自然の暴威というのはもちろん昔もあったし、災害も時々あった。しかし、このところの気象はこれまでの経験則では予想できないとんでもない事態が起きているかもしれず、それがどうも人間のやっている活動の結果らしい、といわれるとますます不安はつのるのである。

「検証の壁 挑み続ける科学者:月刊安心新聞  神里達博 
 この夏、列島は激しい雨に脅かされている。特に7月上旬の九州北部の集中豪雨では、40人を超す死者・行方不明者が出るなど深刻な被害が出た。街を埋め尽くす流木の映像に驚いた方も多かったのではないか。
 各地の被災現場では、しばしば「長くこの土地で暮らしてきたが、こんなことは初めて」と語る老人の姿が見られた。「数十年に一度の豪雨」といった言葉も頻繁に聞く。
 他にも、ゲリラ豪雨や竜巻、寿命が長すぎる台風など、異常気象に関するニュースは絶えることがない。常態化する異常現象は、いずれ「異常」と呼ばれなくなるだろう。
  ◎       ◎         ◎  
  このような状況を前にして私たちの脳裏に浮かぶのは、「温暖化」という言葉であろう。この夏、頻発する豪雨も、「化石燃料を人類が好き放題に燃やしてきた結果」なのだろうか。今回は、いわゆる地球温暖化問題について少し考えてみたい。
  この仮説が一般に知られるようになったのは、20世紀の後半であるが、その可能性に関する指摘は意外に古い。19世紀の前半、フランスのフーリエという科学者は、太陽からもたらされる熱量に比べて、地球の気温が高すぎることに気づいた。彼は、その原因を大気の「温室効果」によるものだろうと考えた。
  またスウェーデンのアレニウスは、二酸化炭素の増加によって気温が上がることを、19世紀の末に指摘した。二酸化炭素の濃度が2倍になれば、気温が5~6度上昇するだろうという予測もすでに示している。
  だがそれらの科学的な知見を結びつけ、具体的な問題として捉え直し議論の俎上に載せたのは、1960年代の環境NGOであり、また米国大統領の科学的助言委員会であった。さらに、それが地球全体にとって重要な共通課題として広く共有されたのは、80年代後半から90年代にかけてのことである。理論的可能性が提示されてから、世界が行動に移していくまでに長い時間がかかったように見えるが、現実の被害が顕在化する前に対策が始まったという点では、迅速な対応ともいえる。このような温暖化問題の「捉えにくさ」は、従来の科学の枠組みに収まりきらない、この問題の特殊な性格と深く関わっている。
  まず、この仮説を検証するための実験が困難であったことが挙げられる。もし、地球を二つ用意して、一方では二酸化炭素の放出を続け、もう一方では放出を止め、長い時間をおいて両者の違いを観察することができれば、仮説は「簡単に」検証できるだろう。だが、そんなことは当然不可能だ。化学物質の反応や、物体の運動といった他のケースと、この点で大きく異なるのだ。
  この分野の研究は直接の実験ができないので、各種の仮定をおいて理論的な計算を行う「シミュレーション」に依存する部分が拡大する。だがその分、どうしても不確実性が大きくなる。精度を高めるには、できるだけ多くのデータを集める必要があるが、地球全体の問題であるために、対象が時間的・空間的に非常に広範囲に及んでしまう。
  たとえば、気温や降水量といった、基本的な気象データはどのくらい昔のものがあるのだろうか。日本について言えば、18世紀の後半にオランダから温度計などが輸入され、断片的には測定値も残っている。しかし本格的な観測は気象台が設置された明治以降であり、正確なデータは、過去百数十年分に限られる。気候変動の時間スケールは、これに比べてはるかに大きい。そこで研究者たちは、日記などの歴史的文献の検討も含め、さまざまな方法で過去の気候を推測しようと努力している。
  もう一つ、二酸化炭素の放出の後、実際に気候が変化するまでに、かなり時間がかかるというのも大きな問題だ。因果関係の理解は、科学の要である。たとえば、磁石の性質を私たちが容易に把握できるのは、磁石を鉄などに近づけてから吸い付けられるまでの時間が、非常に短いからである。仮にそれが1年かかるとしたら、きっと磁石という現象は、因果関係として捉えられないだろう。原因と結果が時間的に離れている現象は、科学的理解のスコープからはずれてしまいやすいのだ。
   ◎        ◎        ◎ 
 以上のように地球温暖化問題は、科学的に実態を把握すること自体に根本的な難しさを伴う。これは、政策決定者に対して、政治的な判断の余地を大きくする作用を持つ。なぜなら科学的不確実性が高い分、事実によって政策判断が自動的に決まる領域が狭まるからだ。これが、地球温暖化問題が政治問題化しやすい、ひとつの大きな要因なのである。
それでも、世界中の専門家が努力を続けた結果、最新の報告書では、人為的な二酸化炭素の放出によって温暖化が起きている可能性が極めて高いと、結論づけられるところまで来た。これは重要な成果であろう。
 最初の問いに戻るならば、私たちが体感するようになった最近の異常気象は、地球温暖化と関係していると理解すべき証拠も確実に増えているのだ。
この他、外交プロセスとしての地球温暖化問題など、議論すべきことは多々あるが、別の機会に譲ろう。一点だけ追記しておきたいのは、今、パリ協定から離れようとしている米国こそが、最初にこの問題の深刻さを理解し、本格的な科学的検討を開始したこと、そして今も多くの中心的なメンバーが米国で活躍している、という事実である。私たちはアメリカという国の重層性と奥深さを、忘れるべきではない。」朝日新聞2017年8月18日朝刊11面オピニオン欄

  科学は物事の真実を正確に測定し、分析し、確実な知見に基づいて未来を予測する、だからいい加減な予言や無責任な憶測より百倍信用できるのだ、という科学と科学者への信頼は、いまもなお社会の基本的な前提になってはいるが、その科学も不確かなことしか言えない、あるいは予測が大きく間違うということがあるのをぼくたちは知っている。ただ、どこが間違ってそのような結論が導かれたかは、科学者以外が検証するのは難しいし、科学者といってもその問題に関わっている研究者はごく限られた人たちである。神里氏が言うように、物体の特性や化学物質の変化などは実験や観察で短期間に精密なデータをとることができる。しかし、地球全体の気象変化というようなもの、あるいは地殻変動の長期的変化のようなものは、実験観察のデータをとるのは難しい。いくつかの仮定やモデルで不十分なデータを操作する「シミレーション」ぐらいしかできないし、やっていない。だとすれば、地球温暖化に対して何をすれば有効なのか?それを真剣に「科学的に」考えているアメリカが、愚かな政治家、いや政治家ですらない大統領によって、非常に短期的な利害だけで世界を動かそうとしているのは、憂うべきことだな。
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