失われた時をもとめて ラリッサ・デードワ プレミアムライヴ

2012-02-08 02:20:20 | 日記
ロシアのピアニスト、ラリッサ・デードワがこの日のためだけに用意してくれた、スモール・オーディエンスのためのリサイタル。
チャイコフスキーの「四季」全12曲を演奏した。すみだトリフォニーホールのステージの上に椅子が並べられ、聴衆はピアニストを囲むようにして着席する。
シルクのシルバーのカシュクール・ブラウスを着たラリッサさんは、美人でとても優しそうなピアニスト。
お歳はわからないが('72年からモスクワ音楽院で教鞭をとり、現在のメリーランド大学教授)
ふっくらとした手と背中を見て、咄嗟に「おかあさん」と呼びたくなった。
鍵盤の上をやわらかく舞う両手は、とても美味しいシチューやボルシチを作りそうだ。

音楽は、とても自然体だ。ピアニストが、とても素晴らしい気分で演奏しているのがわかる。
聴いていて、芯からリラックスできるのだ。
大自然の中にいるとき、香りのいい花に囲まれているとき、心通じ合える動物と遊んでいるとき、同じような精神状態になる。
少し遅れて到着したので、三月「ひばりの歌」から聴いたが、照明を落とした薄暗いホールに、広々とした野原が浮かび上がるようだった。
4月「松雪草」5月「白夜」そして6月「舟歌」。次々と、景色がかわっていく。みごとな色彩感。温度や香りまで感じられる。
子供の頃に感じた自然とは、こんなふうなものだった。
幸福と、好奇心と、とても大きくて安心できるものに包まれながら、季節が移り変わっていくさまを眺めていた。
春も夏も秋も冬も、今よりもっと生き生きと五感の喜びとつながっていた。

ラリッサさんのチャイコフスキーは、とても優しい。
チャイコフスキー自身が『童心』をとても大切にしていたこととも関係があるのだろう。
お母さんが子供に物語を読み聞かせるように、語りかけてくる。
こう表現すると、何やら高級なものではないようなたとえだが
技術とか知性とか、そんなものはとうに飛び越えて、もっと大きなもののためにピアノに向かっているのだ。
とても寛大で、深い愛に溢れていて、そのへんの若造ピアニストなんかには表現できない境地だ。

ライヴ演奏というのは、すごい。
演奏家と同じ時間と空間を共有していなければ、この特別な感じは受け取れない。
ラリッサさんのピアノを聴いて、どれだけ自分が疲れていたかに気付いた。
身体の節々に、足りていなかったエネルギーが吹き込まれてゆく。
音楽って、特効薬みたいだ。硬くなった筋肉が緩み、呼吸が深くなり、全身がラクになる。
家の中でも、仕事場でも、電車の中でも、息詰まるような人生を送っている人は
こんな音楽を聴くべきだ。深い深いリラックスを与えてくれる。
乾いた喉が水をゴクゴク吸いこむように、全身が音楽を吸いこむはずだ。

アンコールは、ショパンを三曲。
作品18の「華麗なる大円舞曲」がはじまった途端、マドレーヌと紅茶のいい香りがふんわりとした。
マルセル・プルーストの世界だ。
清潔で温かい部屋の中でいただく、素敵なおやつの思い出。
甘納豆や芋ようかんではなく、ふんわりしたバターの香りのマドレーヌでなければいけない。
この曲はそう演奏されるのが一番ふさわしい、と感じられるような、幸福できらきらとした楽しげなワルツだった。
そして、作品15-2のノクターン。
満点の星空の、その星々が歌う歌のような音楽だ。ピアノから鳴っているのではなく
四方八方からピアノに向かって無数の音が集まってきているような、そんな不思議な音なのだ。
もう、テクニックがどうなっているのかなんて全くわからない。魔法のようだ
ピアノのほうからも、ラリッサさんに愛情を示していた。
鈴のようでもあり、銀河の音のようでもある。特別なノクターンだった。

女性が芸術とつながるということは、何かを「思い出す」ことなのだ。
最初からもう、大切なものとつながっている。冒険したり、賭けをしたりする必要なんかない。
あのふっくらとした手で作る料理やお菓子は、とても美味しそうだなぁ…。
ラリッサさんの極上のピアノを聴きながら、再び心でこうつぶやいてしまった。
「…おかあさん!」。

2/11のオール・ドビュッシー・プログラムも聴きに行きます。



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