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他山の石としての江藤淳、目指すは孤高の作家

2015-05-27 10:16:38 | 読書ノート
小谷野敦『江藤淳と大江健三郎:戦後日本の政治と文学』筑摩書房, 2015

  タイトルにある二人を扱った評伝。二人とも1950年代後半に若くして文壇にデビューし、20世紀後半の日本の文壇にそれなりの影響力を持った。本書は二人の雑誌上の発言や人間関係を時系列を追って検討するというもので、文壇ゴシップの趣きがある。一方、彼らの著作に対してはコメント程度のものがあるだけで、詳しく分析されているわけではない。要は二人の「生き様」が検討されているのだ。加えて、ところどころに著者の突っ込みが入る。

  著者の評価は、大江健三郎に対して肯定的で、江藤淳に対して否定的である。大江健三郎の戦後民主主義的な政治思想に説得力はないが、小説のクオリティは高いという。ただしその評価は、大江は核戦争による人類絶滅に性的エクスタシーを感じている、という憶測に支えられたものだ。江藤に対しては、特権階級意識が時折顔を出す嫌味な俗物で、勉強不足のため人生の後半にはまともな著作を書けなくなっていたと手厳しい。反米かつ天皇崇拝家という点も著者にとって駄目なところらしい。生き様の点では、虚飾ばかりの江藤より、徒党を作らず作品やエッセイ(政治文書を除く)で自己をさらけ出す大江に軍配が上がるというわけである。以上のように、最終的な人物評価には、生き様だけでなく残した作品もかなりの重みで考慮されている

  かなり資質の違うこの二人を比較対象とするのは適切なのだろうかと疑問に感じるところだが、僕はこれが著者の欲望の方向なのだと理解した。つまり、著者は大江のように良い作品を書きたい──その作品が必ずしも正しく世間に認知されないとしても。一方、たとえ文壇で影響力をふるうことができたとしても、良作を書けない江藤のようにはなりたくない。芸術至上主義者としての小谷野敦の誕生である。こういう欲望を、作品論ではなくゴシップまわりの検討によって匂わせてしまうところに、著者の深い屈折を感じてしまう。
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