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米国における科学知識の所有をめぐる議論と分析

2010-10-29 11:30:41 | 読書ノート
上山隆大『アカデミック・キャピタリズムを超えて:アメリカの大学と科学研究の現在』NTT出版, 2010.

  米国大学の研究資金の獲得の現状、それを支える哲学的・社会的背景について報告しながら、大学研究における生産性を保つためにどのようなパトロネッジが最適かということを追求した論考。理系の研究事例中心だが、科学社会学や経済学にも議論を求めており、スケールの大きく深い考察となっている。

  著者は、研究資金を民間から獲得すること、また研究成果を特許で囲い込むことについて、肯定的立場のようである。大学研究者の共通了解事項として、大学で生産された科学知識は公のものとなる(誰でも使ってよい)かわりに、それを発見した研究者には名誉・学会などでの地位・更なる研究資金が与えられる、というものがある。1980年代以降の米国の大学で見られた、商品化を最終目標とした民間資金の流入、それに伴う科学的知識の囲い込みは、そうした了解を破壊するものだった。特に、生化学分野でそうした傾向が激しいという。

  僕が読んだ限りでは、問題は特許の捉え方のようである。科学知識を特許で占有状態にしてしまうならば、大学に政府が資金を出す根拠が薄れる、というのが普通の感想だろう。しかし、特許は必ずしも特定の知識を公の場から締め出してしまうものではない、という反論もあるようだ。それによれば、大学研究者式の論文による発表は、逆に有用であるかもしれない知識を埋もれさせる可能性を高める。だが、特許はそうでない。発見者または出資者がそれを有効活用しようと磨きをかけてゆくからである。また、知識が民間で活用される可能性も広がる。以上のような反論にまだ首肯できない部分は多い。特許と論文発表それぞれの影響力を比較する研究がみたいところである。

  いずれにせよ、民間資金は以前と比べて増加したものの、いまだ米国の科学研究の出資額の6割は連邦政府からのものである(p13)。単純に「政府から民間へ」ということではなく、「政府と民間」の混在状態なのが混乱のもとであるようだ。しかしながら、倫理的に問題が残ったままでも、生産性が高まるならよい、というのが米国の(そして著者の)大局的判断なのだろう。
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