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国際法および英米法の立場から読む日本国憲法

2017-07-12 15:24:36 | 読書ノート
篠田英朗『ほんとうの憲法:戦後日本憲法学批判』ちくま新書, 筑摩書房, 2017.

  日本国憲法論。三つの論点があって、まず、日本国憲法のベースを作ったのは米国占領軍であるのだから、英米法流の解釈法にしたがって日本国憲法──特に平和主義について──を読んでみるというのが一つ。そして、現在の憲法学の主流(=東大の憲法学)が、憲法解釈において紛れ込ませている夾雑物を明るみにするというのが一つ。最後に、なぜ、日本の主流の憲法学が、現在のような形──集団的自衛権を違憲とするような──となっているのかについて考察するというのがもう一つである。

  最初の論点だが、米国は国連憲章と整合するように日本国憲法をデザインしたのであり、現行の憲法のままで日本が「集団的自衛権」を行使することは何の問題もないという。そこには一国の憲法が国際法に優越することはないというのが基本認識としてある。また、米国憲法および日本国憲法が採用する社会契約論的な考え方に従えば、憲法によって制限されるのは、政府だけでなく社会の構成員も含まれる、というのが正しい立憲主義理解であるという。さらに、英米法の理解では、人民の権限の委譲によって政府はできあがるが、議会・行政・司法・中央・地方と権力は分割されており、人民以前に存在する「国家」概念などは憲法論では存在しないという。

  一方、日本の主流の憲法学は、そもそも日本国憲法には存在しない概念──例えば「統治権」(芦部)など──を密輸入して憲法解釈を施している。その由来は19世紀のドイツ憲法学だとされる。それは、国際社会に先行するものとして「国家」をアプリオリに捉える。こうした考え方が、主流の憲法学者による、国際法より日本国憲法が優越するかのような言説の背景にあるという。しかし、20世紀の英米法は、現実の軍事的優位も伴い、そうした古い考え方を否定する形で国際社会で普及・定着してきたし、また日本国憲法もそれを否定するために導入されたのだ、と。

  ドイツ憲法学の影響は大日本帝国憲法の起草にまで遡ることができる。それが戦後の今まで続いたのは、憲法学者の宮澤俊義の渡世によって、主流の憲法学が意図して戦後民主主義のような大衆運動と結びついたためだという。こうした結託が、「アプリオリに存在すると想定された一枚岩の「国家」を憲法によって掣肘する」という一面的な「立憲主義」概念の理解を促し、また憲法学者をして反権力運動に走らせるとしている。彼らのこのような国家観は戦前の「国体」概念の裏返しにすぎない、と。その悪影響として、冷戦が終わってもう四半世紀も経つのに、日本は憲法前文にある目標の一つ、国際協調の役割を有効なかたちで果たせないままとなっているという。

  以上。上の三つの論点を錯綜させての論述で、わかりやすいとは言えないだろう。とはいえ論争的な内容であり、物凄く面白いことは確かだ。特に、主流の憲法学者の反権力かつ反国家というスタンスから、戦前の「国体」概念の影を読み取って見せるところはスリリングだった。本書で描かれた主流の憲法学者像が適切であるならば、の話だが。19世紀のドイツ憲法学の影響があるために、彼らの権力観はフーコー以前なのか。英米法からのアプローチでは、多元主義的な権力観が当然のように導きだせる。国家をアプリオリとしないところは百地彰のような保守系の憲法学者とも大きく違うところである。また、個人的には著者の前著『集団的自衛権の思想史』で疑問に思った部分を理解できてよかった。

  なお、著者は後書きで9条への条文追加を支持している。しかしながら、本書で示された「国際法と整合性のある日本国憲法解釈」に合意するならば、現状の憲法のまま軍備OKで集団的自衛権OKとなり、改憲は必要ないという話になるのではないだろうか。憲法論議のためには、国際法・英米法で合理的に解釈できない日本国憲法の部分も示されるべきだとは思う。が、いったい誰にその仕事を期待すべきなのだろう。
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