Hiroyasu-kingの体験記  裏読み思考で社会を暴く、真理不尽の違法許さず! 遊び心で一刀両断

ヒロヤスキングの穴馬指南奮戦記から、社会の真相に迫る裏読み体験談 
官僚国家の罠 国民は家畜じゃないよ 主権在民だよ!

家康の謎 石川数正は忠義の人 戦国時代は実力主義の下剋上ってことだね 武士道は戦略的には弱かったということだろ

2017年04月20日 09時47分39秒 | 武田信玄、徳川家康、山本勘助、八王子同心

井伊直虎のドラマを見ると、徳川家康の時代を考察させられるね。徳川家康と服部半蔵、大久保長安の関係を考えると家康の謎に辿りつくよ

家康は何度も入れ替わり人物が変わっているって考えられるね 既成概念になっている歴史観を捨てないと真相は見えてこないかもね

地方の豪族が国取りゲームを始めた群雄割拠の時代では何でもありの時代だからね 群衆を束ねてリーダーシップを発揮するためにはなり替わりなんて当たり前の事だからね

影武者を用意するって事が求心力を失わない為の手段だからね 松平元康と徳川家康は別人だったということが真実なら納得いくことも多いね

山賊集団(豪族)が小国を乗っ取って勢力を拡大するってのはいくらでもあることだからね 群衆を惹きつけるために由緒ある血筋を乗っ取り利用するなんてのは当り前の戦術だよ

この時代に特殊能力を備えた特殊工作員(通称忍者)が功績を上げてトップに立つなんて事が起きてもおかしくはないよ 集団指導体制が起きても不思議ではないね

信長の様な個人の強烈な個性と強さで統治能力を発揮するタイプもいるだろうけどね 身分の低い者が国を統治するまでに成り上がるにはなりすましの背乗りは手段だよ

血筋を生かすって事で政略結婚が起きるんだからね 群衆を納得させて拡大させてゆく手段だよ 徳川家康、豊臣秀吉はその象徴だと思えるね 最下層の人間が天下人になったってことは痛快だよ

徳川幕府の基盤を作ったと言われる大久保長安も同じような生い立ちの人物だからね 血筋では通用しないから、特殊な能力と知識、技術で頭角を現した人物だよ 

血筋では無く能力があれば国をも動かす人物になれるって事を実証した人間が、これらの人物だろう 近親の家臣達にも言えることだね

服部半蔵は初代が忍者で、2.3代は生まれながらの武士ってことだけど、伊賀、甲賀の忍者を束ねて統括していたってことだからね 徳川家の特殊部隊だよ

3代目は関ヶ原の合戦で行方不明(殺された?)になったということだからね 複雑な事情がありそうだね 4代目服部半蔵正重は弟で大久保長安の娘婿だそうだよ

大久保長安と共に佐渡の金山等をを統治したりして、徳川幕府の財政基盤を握っていた面々だからね 政務、財務共に徳川幕府を牛耳っていたのだから、影の実力者グループだよ

3代目服部半蔵の行方不明も謎だけど、関ヶ原の合戦(1600年)で家康が死んでいたってこともあり得るからね 1603年に徳川幕府を開設して2年で隠居しているよ

1605年に将軍職を辞するとともに嫡男・秀忠(2代目)への将軍職を譲っているよ それでも絶対的な権力で死ぬまで影響力を発揮しているからね

側近として大久保一族と本多一族が勢力争いをしていたって事が言われているね 家康の秘密を握った者たちの集団指導体制の勢力争いかもね 家康影武者説が考えられるよ

大久保長安事件(1613年)は不思議な事件だからね 大久保長安が死ななければ、家康たりとも処分ができない程の力があったということだろ 財力も家康と同等であったと言われているよ

長安が病死したことを好機として横領の罪を押し付けて、家康と本多一族が結託して、長安の一族を皆殺しにして莫大な財宝を没収したってことだろ 本多一族が徳川幕府の実権を握ったってことだね

家康自身が影武者だったと考えれば、大久保長安が生きているうちではできなかったと言うことだよ 徳川幕府の特殊工作員は長安の配下であったと考えられるからね

これは家康を盾にして、譜代大名を束ねた本多一族のクーデターみたいなもんだろ 山賊時代から徳川家を作り上げてきた家臣団の集大成だよ 家康も影武者なら殺されたかもね

大久保長安の財宝は、1614年 1615年の大阪の陣の軍資金になったかもね 豊臣家を潰すためにも、大久保長安事件は仕組まれたものかもね

秀忠が将軍職を3代目の家光に譲るのも、近臣者らの集団指導体制の選択だろうね ある意味では血筋の清算も考えられるね 家光は本物の家康と春日野局の子だと言うことにも信憑性があるよ

集団指導体制が確立していたからこそ、徳川幕府250年の存続を可能にしたって事だろうね お殿様は飾りで、優秀な家臣団で統治したってことだろう

 

家康は謎の人物だね 世良田事件に真相ありとも思えるしね 別人の世良田次郎三郎が松平元康になり替わったという説を真実と捉えることもできるよ 得川から徳川に新たな苗字を名のるからね

家康の身辺には服部半蔵とか成瀬正一、大久保長安などの特殊な人物が大きな働きをしているからね 実務に長けた特殊工作員って感じだね

血筋の良い武士ではできない仕事だよ 成瀬正一は、徳川→武田→徳川と仕官替えしているからね 武田領を奪い、武田の家臣(長安等)を家康の直参にした功労者だよ

武田の家臣で諸角虎定の首を取り返した猛者ぶりは普通ではないからね 川中島の決戦で敵陣に忍び込んで主君の首を取り返して来たなんて特殊工作員(忍者なみ)の仕事だよ

武田軍の動きや戦略を一目で記憶して覚えたって話だからね 後に、家康の家臣となって石川数正の出奔で戦略を武田方式に切り替えたのも成瀬正一の所業だよ 

根来忍者と強い繋がりがあったようだし、息子は根来衆の鉄砲隊200人を部下にしたって事だからね 成瀬正一は特殊工作員って感じだよ

山本勘助は忍者の頭領だったという話もあるしね 大久保長安は猿楽師の血筋だからね 諸国を廻る探索の忍者って感じだよ 特殊工作員の血筋って感じだよ 勘助に学んでいる世代だね 

伊賀、甲賀同心を仕切ったのが服部半蔵で、八王子千人同心を仕切ったのが大久保長安で、根来衆を仕切ったのが成瀬正一(一族)なら、家康の特殊工作員は最強だよ

家康を中心とした集団指導体制が出来上がっていたとも考えられるね 表向きの家臣たる武士の行動では成しえないことを「実践できる影の軍団」として抱えていたってことだろね 

 

松平元康から徳川家康に入れ替わった時から、家康を長とした集団指導体制で、徳川家が成り立っていたと考えれば納得がいくことも多いね

優秀な山賊集団(豪族)が、松平家を乗っ取って、武田の家臣を吸収して、今川、北条を吸収することにより天下人になったと考えれば、適材適所の人材が多々居たってことだろ。

外様の家臣を直参旗本で使いこなし、身辺警護までさせるなんてことは、統治能力を持った信頼できる人物を家臣として抱えているってことだろ 新規採用の人心術の天才だよ

実戦に長けた山賊上りだからこそできる芸当でもあるよ 血筋の良いお坊ちゃまではできないことだろ できるとすれば信長の様な神格化した独裁者にならなければ統治できないよ

家康は信頼できる家臣団の集団指導体制の神輿に乗った殿さまって感じだね 殺されても身代わりを立てて組織の統治体制を守るって考えが家臣団に確立していたって感じだよ

家康は関ヶ原の合戦で既に死んでいたって説もあるからね その後は影武者が家康を演じて、集団指導体制で徳川家を天下国家にしたって感じもするよ

主君に命を賭けて仕えるのが武士の本分なんて教えだけではできない芸当だからね 策士が武家魂を利用して組織を統治するなんて工作は、特殊工作員(忍者)の思考だよ

戦国時代の歴史は徳川幕府に捏造された歴史って感じだね 能力と力があれば天下人になれるような時代でもあったということで、血筋だけではない実力主義の時代であったということだね

 

ここで、石川数正の出奔の謎に仮説をたてて見るとすると、石川数正は忠義の人であり裏切り者ではないと言えるよ

数正は松平元康には竹馬の頃から仕えた家臣だよ 今川の人質生活を共に過ごした重鎮だよ 元康の家老として尽くした人物だからね

1562年の清州同盟を成立させたのは石川数正だと考えれば納得がいくよ 

1560年「桶狭間の合戦」後に、今川からの独立を目指した松平元康が、勢力拡大を考えて豪族を統治する戦いの最中に死去(殺された?)したとすればその後の話が納得できるよ

石川数正は松平家を守るためには、松平元康は生きていなければならないと画策するからね そこで登場したのが後の徳川家康の元康なりすましって事になるからね

今川と織田家と争っては生き残れないから、石川数正が偽の元康(後の家康)を連れて織田信長に逢い、人質交換を持ちかけて、清州同盟も成立させたってことの方が納得がいくよ

石川数正は織田信長とは顔見知りであったはずだからね 幼少の頃から元康に仕えているからね 年が元康、信長よりも上だからね 両者を熟知していた人物だよ

数正は1532年生まれ、信長は1534年生まれ、本物の元康は1542年生まれだからね 子供の頃の年齢差は大きいよ 数正は信長より2才年上だよ 信長と元康が8才違いでは面影は薄くなるよ

信長から見れば家康の付き人をやってた石川数正は2才年上だからね 幼少の頃は、信長たりとも、数正は年上の立派な侍に見えたと思うよ 数正の顔は覚えていただろう

幼少の頃の共通の記憶を持っているからね 信長の思い出話に敏感に反応できるのは石川数正だよ 数正の言葉を信長は信じたと思うね 偽物でも元康だと紹介すれば信じただろう

数正が積極的に信長に話しかければ意思の疎通は可能だったと言う事だろう 幼少の元康の面影からでは見破ることはできなかっただろうね それとも似ている影武者を使ったかもね

成人した元康の嫡子(松平信康)が、織田信長の人質となっていた時代の顔合わせだからね 29才の信長も、32才の数正を信じて、21才の元康が本物かどうかの疑いは持たなかっただろうね

数正は人質交換を実現して清州同盟を成立させたんだから、後々の政略結婚となる、信康と五徳(信長の子)の結婚の約束も成立させたって感じもするよ 信康の強烈な後ろ盾になるからね 

この同盟で信長を味方につけたって事が、後々の徳川家を守ったということだろ 信長には明かせない秘密を抱えても、数正は信長の庇護の下に、信康の家督相続の確証を得たってことだよ

これらの事を、数正を中心にして元康の家臣団と家康の家臣団が合議制で決めて実行したとすれば、その後の石川数正の出奔の謎が解けてくるよ ここまでは数正に主導権があったということだろ

数正は主君たる元康を失ったが、嫡子の信康を守って、元服すれば徳川家の当主にする約束の下に、家康グループとの共同指導体制を受け入れていたって考えられるよ

元康の正室(築山殿)と信康を取り戻しても、偽の元康(家康)と筑前殿とは対面させられなかったということにもなるからね 信康は本当の元康の顔は分からなかっただろうから信じただろうね

家康(偽の元康)は築山殿と顔合わせはできないからね 逢わずに隔離したことも納得できるね 世間を騙し続けるためには、築山殿を殺して処分するのは、家康の望むところだからね 

家康から見れば、信康は血のつながった実子ではないからね 石川数正グループとの約束で成り立っている跡取りだよ 信康を殺すことによって徳川家の乗っ取りが成立するってことだよ

五徳を煽って織田信長を怒らせて、信康に切腹をさせたって事が、松平家の乗っ取りを完遂させる、家康(グループ)の最終章って事だろう 数正も為す術も無かったということだね 

絶対的なバックボーンとして期待した織田信長が激怒して、家康の謀略によって元康を失うことになったことが、数正の誤算であり、大きな失望になったということだろうね

信康を主君とする岡崎城派(数正)と家康を主君とする浜松城派の協定(信康に家督相続)で成り立っていた徳川家の集団指導体制が「信康切腹」で崩れてしまったんだろうね

信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったということで、家康の「松平元康のなりすまし」が完遂したってことだろ 

挙句の果てに、数正がバックボーンと考えていた織田信長も、本能寺の変で殺されたよ 光秀、家康の謀略とも言われているからね 石川数正も自身を守る手段も無くなったよ

羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い(1584年の小牧・長久手の戦い)で織田家は家康の手中に入ったからね 家康への対抗手段は無くなったよ

残るは羽柴(豊臣)秀吉に縋るってことかな 秀吉と数正の利害は、打倒家康で一致したってことだね 謀略で松平家を家康に乗っ取られたことに敵対する数正の仇討が想定できるよ 自らも生き残る選択だよ

同じ成り上がり者でも、秀吉の方が忠義者に感じただろうね 織田家をたてる姿勢に家康よりも信頼感を持てたってことだろうね 家康には殺されると確信できたんだろう

数正は、その後は秀吉に仕え、松本城(10万石)の城主となり、1592年に死去(享年61)しているね 短命だし、病死(ふぐ毒とも)の死因も気になるね 家康に毒殺されたかもね

 

石川数正は元康の嫡子信康を殿様にすることが、終生の忠義として捉えていた武士であったと考えられるよ すべてを投げ捨てて主君に仕えた武士ってことだろうね

その証として、一向一揆が起きた時にも、石川一族(父、兄弟、親類)に反しても、浄土宗に改宗しても、徳川家に仕えているよ すべて、信康を殿様にするために私事を捨てたってことだろ 

既に徳川家の命運を握っていたってことだろ これこそ武士の本分だろ 信康を守るために数正の近親を信康の家臣としているよ 信康の切腹により多くの近臣を失っているよ

信康を失ったということで石川数正の徳川家康に仕える理由は無くなったよ むしろ近臣が次々と殺されてしまったよ 数正なら次は俺だって分かるだろ 

徳川家康の真相を知るものは粛清されたってことだね 石川数正が家康に殺されるのは時間の問題となり、数正は察知していたってことだろ だから、突然の出奔だよ

逃げる絶好のチャンスが訪れたってことだろ 厳重な監視下での逃亡だったと思うよ 秀吉なら受け入れてくれるとの確証もえていたのだろう 秀吉の探索能力なら「家康の真実」を知っていたかもね

豊臣秀吉に仕えたってことの真相は、家康の汚さと自らの命の危険性を察知したってことだよ 数正から見れば、当初は、偽の元康(家康)は主君では無く、操り人形であったということだろ

家康の策略と近臣の力や知恵は、強くて優秀であったがために、松平家は「軒先を貸して母屋を取られた」って事だろうね 忠義の武士では特殊工作員には勝てないよ 術中に嵌ってすべてを取られるってことだね

石川数正は知恵ものだった! 忠義の武士だった! けっして裏切り者ではない! ただ、野武士の知恵と策略には勝てなかったということだろ 

家康は、百姓の宮本武蔵が天下一の剣豪になったようなもんだよ 勝つためには手段を選ばずだろ 忠義者の武士道精神では理解できない山賊なんだろ

徳川家康を美化すれば、石川数正は裏切り者ということにされるけどね 家康に殺されることが分かれば、逃げ出すのは当り前だよ 「為す術も無し」って事態に追い込まれたってことだよ

主君として仕えた、松平元康と、信康の敵討ちと考えれば、豊臣秀吉に仕えるって事が再起を目指した第二の人生になるよ 松本城で家康と戦う覚悟で臨んだと言うことだろうね

裏切ったと言われる家康ののど元に、たったの10万石で臨むなんて、玉砕覚悟のことだろ 真実は秀吉も知っていたってことだろうね 数正は絶好の捨て駒になるからね

石川数正を忠義の武士として称賛したいね 家康の謎を追求すると想定できるストーリーになったよ 戦国時代は実力主義の下剋上ってことだね  

武士道は戦略的には弱かったということだろ 勝つためには手段を選ばずってことが勝利の方程式ってことかな 知略戦では、武士道では既に負けているってことだね

石川数正は裏切り者では無く、松平元康、信康に心底仕えた、忠義の武士だったと思いたいね 見方を変えれば「武士の鏡」だろ

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