蹴球放浪記

緩まない、緩ませない。
横着しない、横着を許さない。
慌てない、「だ」を込める。

茶碗の中にある「宇宙」。

2008-12-04 00:38:09 | 舞台のこと

そういうことを改めて感じさせることができるのが茶道の凄み。

というわけで「劇団衛星」という京都のカンパニーによる
珠光の庵」という演目の話でもしましょうか。

この演目を福岡でもやるよぉ、という話を一年前から聞いて、
というか、このカンパニーの演目で「大陪審」という今のニュースに
すごく合った観客参加型の舞台があって、それを北芸まで行って見に行くぞ、
ネットで予約して、お金を銀行振り込みで入れて、e-チケットだから
メールでIDをもらって、さああとは行くだけ、次の日は西鉄で飛ぶ劇だ、
と思ったら、自分も憎んでいて、相手も自分を憎んでいた母方の祖母が
前の日にぽっくり逝って、通夜、葬式だよ。
「邪魔しやがって、ああ腹が立つ」ともやもやしてたのをまた思い出した。

そんな話はこっちにおいといてチラシを初めてぽんプラザのオフィスで
見たとき、正直、出遅れたか、とびびってしまった。
「一日二回公演のみ、一公演あたり25人限定、会場電話のみ申し込み、
 希望者多数の場合は抽選」と自分にとってハードルの高すぎる内容。
けれど、行きたいんだから仕方がない、勇気を振り絞って電話する。
あとは神様が自分に必要とあらば来い、というし、必要でなければ
来なくていい、というわけで。
結果、神様が自分に必要だから来い、という連絡をもらい、
お金を入れて、あとは行くだけ。
(あとからカンパニー経由でメールによる申し込みもできる、と聞いたがまあいい)

当日は家から自転車でゆっくりと行く。
箱が昔、玉屋というデパートの社長さんが作った住居兼茶室を公園として
整備して、「日本文化を伝える」空間になっているものだから
庭がすごくきれいで、実際に使っていた茶室も手入れがすごく行き届いていて、
ああ、このまま何時間も何も考えず、この中でぼけーっとしたいなぁ、
この空間に自分の体全部を溶け込ませたいなぁ、と思っていたら、
「準備ができました」と案内が来て、公演「空間」に入る。

・・・空間のつくりがすごくうまい。
いろいろ「習字」で書いたものがあちこちに張ってあってとくに「貞治、お疲れ」は
つぼにはまった、そんなのを眺めて緊張をほぐすとどこからともなく
プレイヤーが表演部にやってきて「場を暖める」ムーブマイムを始める。

お話の中身は室町時代半ばから終わりらへんのものすごく退廃していた時期、
京都で流行の「闘茶」をお寺でこっそり「開帳」していたところから始まる。
(この時代から「お寺」と「博打」は切っても切れないものなのですね)
茶道の心得のある上の妹に後日その話をすると「茶歌舞伎」ということを
言っていたが、まあいいや、その賭場が開帳してから勝ちっぱなしのなぞの男。
来る者来る者お金を巻き上げられ、とうとう仕舞いには胴元までもすってんてん。
困った胴元、「闘茶の達人」村田珠光を呼ぶことに。
・・・これがまあ、嫌味なくらいかっこいいのですよ。
「俺様は勝負に飽きたけれど、どうしても、というから来てやった」感が
すごく出ていて、なぞの男に「ずっと茶を飲み続けていたから
味覚も麻痺しているだろう、何ならここにまとめて茶を出してすべて当てて見せよう」
と半ば挑発してすべて当ててしまい、なぞの男が将軍様だと正体までばらす。

しかし、こんなすさんだことやってたらくたびれるし、もやもやはたまる。
で、困った珠光は胴元であるお寺の和尚、一休禅師に教えを請うことに。

ここから、プレイヤーと観客のグルーヴ感が一気に高まってくる。
「禅の本質」である「宇宙と私」、「私と宇宙」の距離感が話を追うごとに
激しく動いてきて空間の陰翳の使い方もあるけれど、すべてが一体となってくる。
すべてが一体となったところで、みんな一緒に座禅を組んで、
道が開けた、「宇宙と私」、「私と宇宙」を確かめるための「道具」として
「茶」というものを使う、そのやり方を考えたから、という展開でみんなで茶を飲む。
本当に茶碗の中にある茶を通じて「私」と「宇宙」がつながっていた。

京都の文化がなせる演劇を見せていただいた、という見後感。



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