山陰の旅2日目、昨日の津和野後編からのつづき(* ̄▽ ̄)ノ~~
旅に出ると枕や布団が違うせいなのか、興奮しているからなのか、どうしても早起きしてしまう\(~o~)/ふあぁぁ
(ここのベッドが妙に柔らかくて寝辛かったせいもあるのだが。。。(^^ゞ)
朝食は7時半からの予定だったのだが、お腹も空いているので、7時過ぎ早々に済ませ、アンティークがいっぱい飾ってある食堂で、香ばしい風味の津和野名産『まめ茶』を飲みながら、陳列してある古いカメラコレクションを眺めていた。(この『まめ茶』(写真上)がこれまた美味しいのだ)
昨日から部屋の鍵の受け渡しをしたり、館内案内、食事を運んだりと、ちょこちょこしていたこのペンションのおっさんは、なんと幻想的な写真で有名な日本写真協会会員でもある写真家高野淳氏だったのだ。
Σ( ̄▽ ̄;)
どおりで、ペンション自体がギャラリーになっているわけだ(笑)
因みに、高野氏の最近の作品は『ペンタックスフォーラム』で長州街道「津和野~萩」を発表しておられる。(いきなり敬語(^^ゞ)
そんな高野氏と出発前に少しカメラの話をし、高野氏自らの手で玄関先にて写真を撮ってもらい、一晩お世話になった『ペンション津和野』を後にし、次の目的地である萩に向かう。
まだ若干、空には雲は残っているが、TVで見た天気予報は晴れだったので、萩に付く頃には天気も良くなっていることだろう。
津和野から萩へはR9を利用するのではなく、県道13号~県道11号を利用するショートカットコースを通る。
高野氏の話では信号も少なく道路コンディションもいいので、約50分弱で萩の東端に到着できるとのこと。
(クリックして拡大すると私達の足跡がわかるよん v( ̄ー ̄)v)
高野氏の予想通り、約45分で萩の東側に出てきた。(上地図の右上隅)
萩の中心部はご覧の通り三角州になっており、白壁などで有名な武家屋敷などは三角州の西側に位置する。
萩は津和野と違って街の範囲が広いので自転車で周る予定にしていたのだが、街の東側と三角州の南側は自転車でも距離があるので先に車で周ることにした。
まず最初に向かったのは萩藩主の菩提寺である東光寺に程近い、激動の幕末時代に短い生涯を自ら激しく燃やし、その情熱で周囲の人たちの心を揺り動かした吉田松陰先生生誕地・墓所①だ。
ここには高杉晋作のお墓など吉田松陰を師事した勤皇の志士達のお墓も多数ある。
銅像が向いているのと同じ方向に見ると、上の写真右のような萩の街と日本海を望むように祀られているが、弟子の金子重輔を従え、下田沖のぺりー艦隊を見つめている姿を、萩出身の日展審査員長嶺武四郎が製作し、題字は当時の総理大臣である山口県出身の佐藤栄作が書き、明治維新100周年を記念し昭和43年に建立されたものである。
そして、銅像の脇を降りるとすぐに吉田松陰先生誕生の地、樹々亭山屋敷跡がひっそりとある。
松陰先生生誕地①からわずかに西に足を伸ばすと、松下村塾の程近いところに、松陰先生の門下生でもあった伊藤博文旧宅と別邸②がある。
両方とも無料拝観できるのがありがたい(^人^)
上の写真の立派な建物は別邸で、伊藤博文が明治40年に東京府下荏原郡大井村(現在の東京都品川区大井)に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向かって右に西洋館、左手に書院を配して、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大な建物であった。
ここにあるのは、当時の面影をよく残す玄関、大広間、離れ座敷の3棟をわざわざ萩へ移築し再建したものだ。
明治時代の宮大工伊藤満作の手によるもので、大広間の畳五枚分の1枚杉板の鏡天井や離れ座敷の節天井など意匠に優れている。
別邸に向かって左側にひっそりと旧宅と銅像がある。
あまりにも質素なので、通り過ごして先に別邸から観てしまった(^^ゞ
茅葺き平屋建てで、外に便所や風呂場があるという当時の農村にあった典型的な下級武士の住宅だ。
居宅各室の大きさは外からの見た目より意外にたくさんあり、6畳1室、5畳半1室、4畳半1室、3畳3室、2畳1室、玄関土間で、この建物はもと萩藩の水井武兵衛(伊藤直右衛門)の居宅であったが、安政元年(1854)に博文の父十蔵が一家をあげて伊藤家に入家した。
その後、博文は17歳になった頃、吉田松陰先生の門下で教育を受け、志士としての活躍や英国への留学など、この家に安住する暇(いとま)はなかったが、明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するでの本拠であった。
お昼にするにはまだちょっと早いので、伊藤博文別邸②を後にし、車で10分もかからないところにある、三角州南側の藍場川の辺(ほとり)にある旧湯川家屋敷③に向かうことにした。
藍場川は関が原の合戦で敗戦し、萩に減封された毛利輝元の子孫である六代藩主毛利宗広が、水害の防止と物資運搬の為に延享4年(1744年)に備前岡山の運河を参考に作ったと言われている。
作った当時は大溝と呼ばれ、藍場川と呼ばれ出したのは明和年間(1781~1789年)に藍染の原料を作る藍場が江向に出来てからのことだ。
上の写真左は松本川から引き込まれている、言わば藍場川の始まりの場所で、結構な勢いで水が流れ込んでいたが、こんなところにも鯉がたくさん泳いでいた(^^ゞ
当然、街中を流れる藍場川にもたくさんの鯉が泳いでいることは言うまでも無い(笑)
旧湯川家屋敷は明治の初めに改築した武士の旧家で、藍場川から水を引いた池があり、ここにもまたまた鯉がたくさん泳いでいる(^^ゞ
昨日の津和野から鯉はもう見飽きたくらいに堪能した。。。( ̄ー ̄;
そして池を出た水は家庭用水として利用された後、再び川に戻っていくという、実に見事にかつ合理的な考えが生かされた造りとなっている。
写真右のように階段を造って水に近づけるようにしたところを『ハトバ』と呼び、池から流れ出た水は建物の下をくぐって台所のハトバ(風呂のハトバってのもある)にやってきて、ここで野菜や茶碗などを洗い、水は再び川に還っていくのである。
お隣の明治時代に首相も勤めた軍人政治家である桂太郎旧宅④にも立ち寄り、ちょうどいい時間になったのでお昼にすることにした。
向かうところは萩で最も古い老舗旅館である『中村旅館』直営の和食レストラン『中村』⑤で、もちろん食するのは『うに丼』である(@ ̄¬ ̄@)ジュルリ♪
なんせこの『うに丼』は時価なので、値段がわからないというスリルを味わいながらお店に入り、注文するのが醍醐味だ(笑)
当日の価格は2,835円だった(う~ん贅沢ぅ~♪)
磯の香りをふんだんに楽しみながらいただきました(^人^)
いやぁ~おいしかったぁぁぁぁっ!
『津和野のうずめめし』『萩のうに丼』制覇っ!
ここまでが萩の午前編。
明日の『萩』午後編へつづくぅ~(* ̄▽ ̄)ノ~~
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同じうに丼の話題にTBさせていただきました。
HiroshiSさんのうに丼の方が豪華ですね。笑
私、山口県出身なんです。
海に囲まれて育ったせいか、魚介や海鮮が大好きです。
はじめまして。
TBありがとうございます。
shikiさんのうに丼の写真を見て、また食べたくなってきました(^^ゞ
山口のご出身なんですね。
萩のホテルではたくさん海の幸が出てきて大満足でした。
山口はほんと海の幸がおいしいですよねぇ~。
東京で知り合ったのですが、偶然なことに
夫婦そろって山口出身です。
住んでいるときは普通だと思ってましたけど、
東京に来ると「お魚おいしかったなー」と感じます。
吉田松陰先生!伊藤博文邸!ハトバ!
旅行記を拝読して山口が懐かしくなりました。
ぶち懐かしいっちゃ!←山口弁
あの辺りは川のある風情のある町並みが
すてきですよね。
城の近くは上級武士、北の総門付近は下級武士、藍場川や松蔭先生あたりまで東に来ると、農村武士と建屋も違います。
ですから藍場川あたりはのんびりした風情でとてもよかったです。
あの香ばしさがたまりません。
松蔭神社には行かれました?
翌日いかれたのかな?
まめ茶おいしいですよねぇ~♪
松蔭神社と松下村塾は前を通っただけです(^^ゞ