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「炎のストッパー」と呼ばれた元広島カープの投手は?

2010年07月09日 | スポーツ
う~ん、今年で17回目の命日になるんか。早いもんじゃのう。



【問題】
7月20日(火)で17回目の命日を迎える、「炎のストッパー」と呼ばれた元広島カープの投手は、次のうち誰でしょうか?

1.大野 豊(おおの ゆたか)
2.北別府 学(きたべっぷ まなぶ)
3.佐々岡 真司(ささおか しんじ)
4.津田 恒美(つだ つねみ)









【正解】
4.津田 恒美




【解説】
「炎のストッパー」として愛された広島東洋カープ元投手、故津田恒美さんを語り継ぐための紙芝居が7日、完成した。
題は「津田恒美物語 涙の一球、勇者たちの大行進」。
遺族や恩師、同級生たちの話を基に、南陽工業高時代をはじめ津田少年の姿を描く。
闘志あふれる真っすぐな人柄の原点に迫った。

スタジアム周辺のまちづくりに取り組む「プロジェクトC」が企画した。
カープ初代監督を題材に昨年制作した「石本秀一物語」に続く紙芝居第2弾。

17回目の命日(20日)を控えた10日に初披露する。
周南市の山口県周南総合庁舎のホールである「少年の主張コンクール周南大会」のアトラクションとして、午後3時ごろから母校和田中の生徒たちが上演。
その場で市教委に寄贈する。

広島初上演は8月7日正午ごろ、スタジアム近くの愛友市場ふれあい工房で、生誕50年記念として予定している。

(「津田投手の人生、紙芝居に」中国新聞 2010年7月8日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201007080011.html



今日は、「投手・津田恒美(恒実)」「津田プレート」「舞台」について調べてみようかの。



まずは、投手・津田恒美(恒実)について。

1978(昭和53)年、進学先の県立南陽(なんよう)工業高校(山口県周南市)で、春のセンバツはベスト8進出、夏の甲子園は2回戦まで駒を進めた。
夏の甲子園の2回戦、天理戦で0-1と惜敗して以来の座右の銘が、「弱気は最大の敵」。
この時、直球勝負をせずカーブでかわそうとしたが、それを本塁打されたことを悔やんでの教訓じゃそうな。

高校卒業後、社会人の協和発酵(山口県防府市)を経て、1981(昭和56)年にドラフト1位で広島カープに入団。

1982(昭和57)年、11勝6敗で、球団初の新人王に輝く。

翌年は前半戦で9勝を挙げるも、以後、故障に悩まされる。

1985(昭和60)年、名前を「恒美」から「恒実」に変える。

1986(昭和61)年、抑え投手として復活。
4勝6敗22セーブの成績でカムバック賞を獲得し、チーム5度目のリーグ制覇に貢献。
闘志あふれるその姿は、「炎のストッパー」にふさわしいものじゃったのう。

1988(昭和63)年、リリーフの失敗などもあり、「サヨナラの津田」とも呼ばれた。

1989(平成元)年、12勝5敗28セーブ、防御率1.63の活躍で、最優秀救援投手に輝く。

1991(平成3)年4月14日、ジャイアンツ戦に抑え投手として登板するも、大乱調のため、たった9球で降板。
打者3人に対して、2安打1死球2失点。
そして、これが生涯最後の登板となったんじゃ。

翌日、広島大学に入院。悪性の腫瘍があることが判明。



津田の病を知った当時の山崎隆造選手会長は、すぐに全選手を集めその事実を知らせるとともに、「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」と涙ながらに訴えた。
広島ナインはこれに奮起し、この年チームは夏場まで独走していた中日ドラゴンズを逆転でかわし、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。
この時、津田とダブルストッパーを組むことになっていた大野豊を始めとする投手陣は、リーグの投手部門の主要タイトルを独占するという大活躍を見せている。

最優秀救援投手:大野
最多勝利・最優秀防御率・沢村賞:佐々岡真司
最高勝率:北別府学
最多奪三振:川口和久

(「津田恒実 エピソード」ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%81%92%E5%AE%9F




津田は同年限りで引退し、闘病生活に入る。
一時は回復の兆しもみせ、リハビリを始めた時期もあったが、1993(平成5)年7月20日、帰らぬ人となる。
まだ32歳の若さじゃった。

その日は、東京ドームでオールスターゲームが行われていた。



「球宴の日に亡くなったのは球界のみんなに会いたいとおもったからではないでしょう。寂しがりやですから…」。
最後を看取った広島時代のチームメイトで、ダイエー移籍後も津田を励まし支え続けた、森脇浩司内野手はとても口が聞ける状態ではない夫人や家族に代わってそう話した。

(「【4月14日】1991年(平3) 炎のストッパー・津田、悲しい最後のリリーフ」スポニチ)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080407143.html



翌日の試合は大野がセーブで試合を締め、野村謙二郎が優秀選手賞に選ばれとります。
山本浩二監督を始めとする広島の選手は、喪服ではなくユニフォーム姿で津田の葬儀に参列したそうじゃ。

「カープの星」にも、もちろん選ばれとります。



創設60周年を迎えた広島東洋カープの歴代スター選手を顕彰するキャンペーン「カープの星」(中国新聞社主催)で、1980年代に活躍した故津田恒美さん、高橋慶彦さん(53)、達川光男さん(54)のレリーフ除幕式が19日、広島市南区のマツダスタジアムであった。

ヤクルト戦前の式典で、93年に32歳で病死した津田さんの妻晃代(てるよ)さん(46)が「とても光栄です」とあいさつ。
達川さんは「たくさん勝った時代のキャッチャーだから選んでもらえた。勝つことがファンの一番の喜び」とスタンドを沸かせた。

ロッテ2軍監督の高橋さんはバックスクリーンに録画で登場し「カープに育ててもらった。広島の野球が僕の基本」と感謝した。

(「80年代のカープの星除幕式」中国新聞 2010年6月20日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006200001.html



そして、歴史は続き…。

一人息子の津田大毅は2008(平成20)年、九州国際大学から東京国際大学へ編入。
野球部監督が元広島カープの古葉竹識(こば たけし)ということで、親子2代に渡って古葉に師事(しじ)されとるそうじゃ。
ポジションは、父と同じ投手。

津田の通っていた和田中学(山口県周南市)では、命日の7月20日に近隣の小中学校チームによる交流野球大会が行われとるそうじゃ。



次に、津田プレートについて。

「津田プレート」というのは、ご存知ですかの?
「直球勝負」「笑顔と闘志を忘れないために」と彫られとるんじゃ。
津田が亡くなった翌年の1994(平成6)年、旧市民球場のブルペンに設置され、今は新球場に取り付けられとります。
新球場内のスポーツバーには、レプリカが飾られとるんじゃ。

テレビで紹介されとったが、登板する前の投手がこのプレートに触れていたということで、銅製のプレートは一部、変色しとるそうじゃ。
もちろん、汚れたからといって、拭いたりすることはないそうじゃが。

昨年、津田の母校・南陽工業高校に「津田プレート」の複製が送られとります。



広島東洋カープは近く、故津田恒美投手をたたえて広島市民球場(中区)に掲げられていた銅板「津田プレート」の複製を、春の甲子園に出場する母校の南陽工高(周南市)に贈る。
「炎のストッパー」の記憶を後輩に受け継いでほしい、との願いを込める。

銅製の原版を忠実に再現した。
縦21センチ、横29・7センチ。
唯一異なるのは輝きだ。
原版は津田投手が32歳で急逝した翌年の1994年、現球場の一塁側ブルペン脇に掲げられた。
後輩投手が触って闘争心を沸き立たせてきたため、摩耗し、色もくすむ。
出来上がった複製はまばゆいばかりの輝きを放つ。

カープの松田元オーナーは「津田投手はカープだけでなく母校の歴史でもある」と寄贈の理由を語る。

村中一雄校長は「これまでも生徒たちは『弱気は最大の敵』という津田投手の信念を学んできた。プレートはさらなる励みになる」と感謝している。

(「母校の南陽工高に「津田プレート」 カープが複製寄贈」中国新聞 2009年3月2日)
http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/carp/2009/news/20090302a.html



新球場に飾られた「津田プレート」を見に来られたのが、津田の奥さんじゃ。



「人の記憶に残る選手になりたいと言っていた。夢がかなったかな」。
故津田恒美さんの妻晃代さん(46)=熊本市=は、初めて訪れたマツダスタジアムのマウンド脇で笑顔を見せた。

旧広島市民球場から数え、10年ぶりの球場。
一塁側ブルペン脇の「津田プレート」では、選手が登板前に触れると説明を受けた。
雄姿をたたえる写真を飾ったスポーツバーでは、お客と記念撮影も。
「選手にもファンにも思い出してもらえて、ありがたい」 早すぎる死から17年。
「何に対しても一生懸命。けなげでかわいかった」とほほ笑む。
「いろんなことを思い出すから」と広島になかなか足が向かなかったという。
「もう大丈夫かなと思ったんだけど…」と目を潤ませた。

(「津田さんの妻、球場で笑顔」中国新聞 2010年6月20日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006200022.html



最後に、舞台について。

津田の野球人生は、ドラマになりやすいんじゃろうの。
最初に紙芝居を紹介したが、2000(平成12)年には、津田晃代の書かれた本を原作にした「最後のストライク」がフジテレビでドラマ化(主演:岸谷五朗)されとります。
そして、今月30日(金)には一人語り舞台があるそうじゃ。



元広島東洋カープの故津田恒美投手の生涯をテーマにしたタレント山田雅人さん(49)の一人語り舞台が7月30日、広島市中区の広島YMCA国際文化ホールである。
元カープの山本浩二さん、池谷公二郎さんもゲストとして駆け付ける。

約1時間、山田さんがマイク1本で語る。甲子園に出場した南陽工高(周南市)時代から、「炎のストッパー」と呼ばれたカープでの活躍、闘病生活を再現する。

津田投手の17回忌の昨年、東京で初演。
今年4月に津田投手の周南市の実家や墓、南陽工高を訪ねてエピソードを増やした。

午後6時半開演。
前売り2500円、当日3千円。

(「舞台で「故津田投手」再現」中国新聞 2010年6月13日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006130055.html



山田雅人は大阪市出身で、大の阪神タイガースファンじゃそうな。
1992(平成4)年3月28日、今はなくなってしもうた藤井寺球場で、阪神タイガースと近鉄バファローズのオープン戦で始球式を務めた。
ところが、元広島カープで、当時タイガースに在籍していた高橋慶彦に、なんと死球を与えてしもうたということもあったそうじゃ。
(その年、高橋は現役を引退)



おまけじゃが、「津田」という名前の小惑星があるのは、ご存知ですかの?



1994年に愛媛県久万高原町(くまこうげんちょう)の久万高原天体観測館職員の中村彰正(なかむら あきまさ)により発見された。
広島東洋カープのリリーフ投手として活躍した津田恒実にちなんで2007年に命名された。

(「津田(小惑星)」ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0_(%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F)



↓カープの星についての過去の記事は、こちら↓

「ミスター赤ヘル」と呼ばれた、広島東洋カープの元選手は誰?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20091219

「カープの星」で最多票を獲得した選手は誰?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100228



今日は、「投手・津田恒美(恒実)」「津田プレート」「舞台」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

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2 コメント

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Unknown (さ)
2011-07-17 23:39:28
山田雅人が広島ローカルスポーツ番組で語りの一部を披露していたが、まったくもって「最悪」。
なんでこんなやつに語らせるのか意味が分からん。
ほうかのう? (福助)
2011-08-17 22:37:00
山田雅人さんは、最悪と言われるほど下手な役者さんじゃないと思うんじゃがのう。
わしゃ、山田さんの一人語り舞台は見たことがないけぇ、なんとも言えんのじゃがの。

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