「明顕寺? 聞いたことがない名前のお寺じゃけど、何か有名なものがあるんかね?」
「ここの梵鐘(ぼんしょう)が有名なんじゃそうな。梵鐘というのは、鐘のことじゃの」
銅製梵鐘(ぼんしょう)
所在地 広島県安芸郡海田町稲荷町一八二−三
総高 一二七センチ 口径 七〇センチ
この梵鐘は、銘文によると享保(きょうほう)年中(一七一六〜一七三五)に海田の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金屋源兵衛の三氏が寄進し、宝暦(ほうれき)二年(一七五二)に再び三氏によって鋳(い)直されたものである。
これを製作した鋳物師(いもじ)金屋(植木)源兵衛・新兵衛は、当時一里塚附近に住み芸州鋳物師筆頭総代で名工といわれた人である。
昭和六十三年十一月一日
海田町教育委員会
(説明板より)

明顕寺 説明板

手前が梵鐘

入口

本堂
「江戸時代の鐘が今も残っとるんじゃね」
「そこなんよ。太平洋戦争の時に、金属供出があったのは知っとるじゃろ?」
「知っとるよ」
「この鐘には文化的価値があるということで、供出を免れたそうじゃ」
「へぇ。その鐘を作られたのが、海田に住んどられた金屋(植木)源兵衛・新兵衛という方なんじゃね」
「植木家は代々、寺院の鐘を作られとったんよ」
植木氏は代々、広島県西部の多くの寺院の鐘を鋳造(ちゅうぞう)し、「芸州海田住植木某」という鐘銘により広くその名を残しています。
植木氏製作の梵鐘として、現在伝わっている最古のものは延宝(えんぽう)5(1677)のもので、18世紀後半の頃には、「芸備両国鋳物師筆頭」の肩書きを使用するにいたっております。
(海田町ふるさと館にある「植木源兵衛」の説明板より)
「たとえば、東広島市の重要文化財に指定されとる慶徳寺(東広島市西条中央3丁目1−8)の梵鐘には、「天和3年(1683) 植木六郎兵衛」の銘が確認できるそうじゃ」
「植木家は、海田の一里塚あたりに住んどられたんじゃね。一里塚いうたら、主な街道に1里、約4キロメートルごとに築かれた塚のことじゃろ?」
「ほうじゃの。海田の一里塚は、広島の元安橋東詰から出発して、2つ目の一里塚になるんじゃ」
「海田の一里塚は、どのへんにあるんかね?」
「明顕寺から西(広島方向)に200メートルくらい行ったところに碑が建っとるけぇ、そのあたりになるんじゃろうの」

一里塚跡の碑
(正面)旧山陽道海田市の一里塚跡
(正面右側)安芸ライオンズクラブ
(正面左側)昭和五十六年三月吉日建之
(裏面)古塚 大正十年 撤去
「おぉ。言い忘れとったが、明顕寺には越後高田藩士の墓もあるそうじゃ」
「越後って新潟県のほうじゃろ? なんで広島にお墓があるん?」
「前に、第二次長州征討の話をしたのは覚えとるかいの?」
「うーん、話をした記憶はあるけど…」
「広島県と山口県の県境で行われたのが芸州口の戦い。この戦いの緒戦となった小瀬川(おぜがわ)の戦いで、幕府軍の先鋒を命ぜられたのが高田藩と彦根藩(現:滋賀県)じゃったんよ」
「あぁ、思い出した。この戦いは、長州軍が圧勝したんよね。この時の戦いで亡くなった高田藩の方のお墓が広島にあるのは分かるけど、なんでこのお寺に?」
「高田藩は、明顕寺を宿にされとったんよ。ほいじゃけぇ、高田藩の戦死者34名がこの寺で葬られ、墓が建てられたそうじゃ」
↓明顕寺の梵鐘・一里塚跡・越後高田藩士の墓については、こちら↓
「歴史・文化・観光 文化財」海田町公式ホームページ
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西国街道の旧町名銘板 広島市中区本通
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彦根戦死士之墓 山口県玖珂郡和木町
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千葉家住宅 安芸郡海田町
海田町出身の、日本人初の五輪金メダリストは?
元広島カープの三村敏之に町民栄誉賞を贈ることにした町の名前は?
【参考文献】
『ふるさと散策マップ集』海田町教育委員会 2004年
「今日は、安芸郡海田町にある明顕寺の梵鐘について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」


















