通じゃのう

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明顕寺の梵鐘 安芸郡海田町

2011年10月12日 14時00分00秒 | 海田町
「昨日は千葉家住宅の話をしたんじゃが、ここのすぐ近くに明顕寺(みょうけんじ)というお寺があるんよ」

「明顕寺? 聞いたことがない名前のお寺じゃけど、何か有名なものがあるんかね?」

「ここの梵鐘(ぼんしょう)が有名なんじゃそうな。梵鐘というのは、鐘のことじゃの」



銅製梵鐘(ぼんしょう)

所在地 広島県安芸郡海田町稲荷町一八二−三
総高 一二七センチ  口径 七〇センチ

この梵鐘は、銘文によると享保(きょうほう)年中(一七一六〜一七三五)に海田の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金屋源兵衛の三氏が寄進し、宝暦(ほうれき)二年(一七五二)に再び三氏によって鋳(い)直されたものである。
これを製作した鋳物師(いもじ)金屋(植木)源兵衛・新兵衛は、当時一里塚附近に住み芸州鋳物師筆頭総代で名工といわれた人である。

昭和六十三年十一月一日
海田町教育委員会

(説明板より)



明顕寺 説明板



手前が梵鐘



入口



本堂



「江戸時代の鐘が今も残っとるんじゃね」

「そこなんよ。太平洋戦争の時に、金属供出があったのは知っとるじゃろ?」

「知っとるよ」

「この鐘には文化的価値があるということで、供出を免れたそうじゃ」

「へぇ。その鐘を作られたのが、海田に住んどられた金屋(植木)源兵衛・新兵衛という方なんじゃね」

「植木家は代々、寺院の鐘を作られとったんよ」



植木氏は代々、広島県西部の多くの寺院の鐘を鋳造(ちゅうぞう)し、「芸州海田住植木某」という鐘銘により広くその名を残しています。
植木氏製作の梵鐘として、現在伝わっている最古のものは延宝(えんぽう)5(1677)のもので、18世紀後半の頃には、「芸備両国鋳物師筆頭」の肩書きを使用するにいたっております。

(海田町ふるさと館にある「植木源兵衛」の説明板より)



「たとえば、東広島市の重要文化財に指定されとる慶徳寺(東広島市西条中央3丁目1−8)の梵鐘には、「天和3年(1683) 植木六郎兵衛」の銘が確認できるそうじゃ」

「植木家は、海田の一里塚あたりに住んどられたんじゃね。一里塚いうたら、主な街道に1里、約4キロメートルごとに築かれた塚のことじゃろ?」

「ほうじゃの。海田の一里塚は、広島の元安橋東詰から出発して、2つ目の一里塚になるんじゃ」

「海田の一里塚は、どのへんにあるんかね?」

「明顕寺から西(広島方向)に200メートルくらい行ったところに碑が建っとるけぇ、そのあたりになるんじゃろうの」




一里塚跡の碑
(正面)旧山陽道海田市の一里塚跡
(正面右側)安芸ライオンズクラブ
(正面左側)昭和五十六年三月吉日建之
(裏面)古塚 大正十年 撤去




「おぉ。言い忘れとったが、明顕寺には越後高田藩士の墓もあるそうじゃ」

「越後って新潟県のほうじゃろ? なんで広島にお墓があるん?」

「前に、第二次長州征討の話をしたのは覚えとるかいの?」

「うーん、話をした記憶はあるけど…」

「広島県と山口県の県境で行われたのが芸州口の戦い。この戦いの緒戦となった小瀬川(おぜがわ)の戦いで、幕府軍の先鋒を命ぜられたのが高田藩と彦根藩(現:滋賀県)じゃったんよ」

「あぁ、思い出した。この戦いは、長州軍が圧勝したんよね。この時の戦いで亡くなった高田藩の方のお墓が広島にあるのは分かるけど、なんでこのお寺に?」

「高田藩は、明顕寺を宿にされとったんよ。ほいじゃけぇ、高田藩の戦死者34名がこの寺で葬られ、墓が建てられたそうじゃ」





↓明顕寺の梵鐘・一里塚跡・越後高田藩士の墓については、こちら↓

「歴史・文化・観光 文化財」海田町公式ホームページ





↓一里塚(広島市道路元標)についての関連記事は、こちら↓

西国街道の旧町名銘板 広島市中区本通





↓第二次長州征討についての関連記事は、こちら↓

彦根戦死士之墓 山口県玖珂郡和木町





↓海田町についての関連記事は、こちら↓

千葉家住宅 安芸郡海田町

海田町出身の、日本人初の五輪金メダリストは?

元広島カープの三村敏之に町民栄誉賞を贈ることにした町の名前は?





【参考文献】
『ふるさと散策マップ集』海田町教育委員会 2004年






「今日は、安芸郡海田町にある明顕寺の梵鐘について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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千葉家住宅 安芸郡海田町

2011年10月11日 14時00分00秒 | 海田町
「おとつい、東広島市にある西条四日市宿の本陣(御茶屋)跡の話をしたよね。ほかの本陣の話もしてもらえん?」

「わしが行ったことがあるのは、今のところ海田(かいた)の本陣だけなんよ」



御茶屋跡(本陣)

所在地 広島県安芸郡海田町上市(かみいち)

本来は、藩主の公用宿泊施設(御茶屋)であったが、宿駅の整備・拡充に伴い本陣の役割(公家・幕府役人・大名などの宿泊所)をはたすようになったものである。
なお、「広島藩御覚書帳(おんおぼえがきちょう)」によれば、広島藩内には九カ所(可部(かべ)・吉田・八木(やぎ)・海田・西条・本郷・吉舎(きさ)・甲山(こうざん)・尾道)に置かれ、海田の御茶屋は、七七〇坪もの敷地があり、四番目の規模であったことが知られる。

平成十四年三月
海田町教育委員会

(説明板より)



御茶屋跡 説明板



「ん? なんで説明板だけの写真なん?」

「いや、本陣の跡に家が建っとって、写真を出すとその家の庭が写ってしまうんじゃ。ほいじゃけぇ、この写真だけで勘弁してください」

「そりゃ、仕方ないね」

「明治になって本陣が廃止された後は、ここに海田尋常小学校が建てられたそうじゃ」

「本陣がダメな時は、脇本陣に泊まるじゃん。脇本陣は残っとるんかね?」

「おぉ、あるで」



脇本陣跡

所在地 広島県安芸郡海田町中店(なかみせ)

江戸時代に本陣が満室の時など、大名が休憩や宿泊をした施設であり、本陣に準じる役割をはたした。
海田市の脇本陣についての詳細な資料は残っていないが、「国郡志御編集二付下弾書出帳(こくぐんしごへんしゅうにつきしたしらべかきだしちょう)」(一八一四年)によると、この付近にあった庄屋の家猫屋新太郎(ねこや しんたろう)宅が、当時脇本陣と呼ばれていたという記録が残っている。

平成十四年三月
海田町教育委員会

(説明板より)



脇本陣跡 説明板



海田公民館



「海田公民館がある場所に脇本陣があった、ということ?」

「ほうなんよ。ここには加藤家の屋敷があって、その加藤家は代々、庄屋などを勤めとったそうじゃ」

「加藤? 説明板には「猫屋」って書いてなかった?」

「加藤が名前で、猫屋は屋号なんよ。広島の猫屋町(ねこやちょう。現:広島市中区)から移って来られたそうじゃ」

「なーんか、今回は、いまいちじゃね。四日市宿の本陣のように、それらしい建物は残っとらんのかね?」

「それがあるんよ。千葉家住宅という建物なんじゃ」



千葉家住宅

所在地 広島県安芸郡海田町中店一六二−一

千葉家の先祖は、上総介平忠常で下野国真壁(栃木県)に住んでいたが、後に信州国伊奈(長野県)に移り神保と号したと伝える。

永正(一五〇四〜)のころ、信胤は安芸国(賀茂郡西条附近)に移り来た大内氏に属していたが、その後毛利氏に属し、小早川隆景の配下で活躍している。

近世初頭になって、海田に来住し江戸時代を通じて、天下送り・宿送り役をはじめ年寄、組頭などの役職を勤めている。
天下送りとは、幕府の公用文書や荷物などを継送する役のことである。
そのほか、街道を往来する諸大名などが宿泊することもあった。

屋敷は、数少ない江戸時代中・後期の建築様式を今に伝え、玄関は入母屋(いりもや)造り、座敷は数奇屋風(すきやふう)書院造りで、寛政元年(一七八九)の建物略図も残っている。

主屋は表構(おもてがまえ)・勝手構・座敷構に分かれ、座敷構から泉庭沿いに渡り廊下で連絡して浴室・雪隠(せっちん)等がる。

昭和六十三年十一月一日
海田町教育委員会

(説明板より)



千葉家住宅 説明板



千葉家住宅 東側より




同上 北側より



同上 右側は蔵



同上 西側より



「これよ、これ! それらしい建物が出てきたじゃん!!」

「千葉家住宅は、第二脇本陣に指定されとったそうじゃ」

「ほいじゃけぇ、「諸大名などが宿泊することもあった」というわけじゃね。天下送りは説明板で分かったけど、宿送り役って何?」

「天下送りは幕府のものを、宿送りは藩のものを扱うそうなんよ。千葉家住宅は1991年(平成3)、書院が県の重要文化財に、庭園が県の名勝に指定されとるんじゃ」

「こんな立派な建物を、今も守っとられるんじゃね」

「ところが、建物を維持・管理するのが難しいということで、今年の7月に海田町に寄贈されたそうじゃ」





↓千葉家住宅については、こちら↓

「千葉家書院」広島県の文化財

「千葉家庭園」広島県の文化財






↓広島藩の本陣(御茶屋)についての関連記事は、こちら↓

西条四日市宿の本陣(御茶屋)跡 東広島市西条本町





【参考文献】
『ふるさと散策マップ集』海田町教育委員会 2004年






「今日は、安芸郡海田町にある千葉家住宅について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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海田町出身の、日本人初の五輪金メダリストは?

2010年04月27日 23時12分18秒 | 海田町
女子陸上競技で、日本人初のオリンピック金メダリストとなったのが、2000(平成12)年のシドニーオリンピックの女子マラソンで優勝した、Qちゃんこと、高橋尚子。



【問題】
海田町(かいたちょう)出身で、1928(昭和3)年に行われたアムステルダムオリンピックの三段跳で、日本人初の金メダルを獲得したのは、次のうち誰でしょうか?

1.織田幹雄(おだ みきお)
2.小掛照二(こがけ てるじ)
3.田島直人(たじま なおと)
4.南部忠平(なんぶ ちゅうへい)









【正解】
1.織田幹雄



【解説】
織田幹雄(1905年−1998年)は、広島県安芸郡海田町(現・海田町稲荷町)出身の元陸上選手。
日本人初のオリンピック金メダリスト。

1928(昭和3)年のアムステルダムオリンピックでは日本選手団の主将として出場するとともに、8月2日に行われた三段跳決勝で日本人初の金メダルを獲得した。
記録は15メートル21。
1931(昭和6)年10月27日、当時の三段跳の世界記録(15メートル58)を樹立した。

「織田幹雄記念国際陸上競技大会」ウィキペディア)




織田の功績を称えて、毎年4月29日、織田幹雄記念国際陸上競技大会が、広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)で行われとります。



当時、英語で「ホップ・ステップ・ジャンプ」と呼ばれていた競技名に、日本語で「三段跳」と命名したのが織田だといわれとります。
ちなみに現在は、トリプルジャンプと呼ばれとる。

ホップ・ステップ・ジャンプといえば、広島出身の西城秀樹も『ホップ・ステップ・ジャンプ』(1979年)という曲を歌われとりましたのう。



1922(大正11)年、広島一中(現・広島国泰寺高校)5年、極東選手権の予選会で、走高跳で1メートル73、走幅跳で6メートル29の日本記録を樹立。
三段跳は13メートル38で、日本記録にあと7センチ足らなかった。



1923(大正12)年、広島高等師範付属臨時教員養成所に入学。



1924(大正13)年、パリオリンピックに出場。
走幅跳は予選落ちをしたが、三段跳で14メートル35の日本記録で6位。
日本陸上初の入賞を果たした。



(5位の記録は14m97)、自分と他の5選手の記録には相当大きな実力の差があり。
入賞出来たのは幸運であった。
次のオリンピックでは三段跳で3位以内に入ってやろうと心に決めた。

三段跳を正式に練習しはじめてから2年間に約2メートル記録が伸びたから、今から4年であと1メートルくらい記録を伸ばすのは無理ではない

「日記」より




1925(大正14)年、早稲田大学第一高等学校入学、競争部に入部。

三段跳はもとより、走幅跳、走高跳、棒高跳、十種競技、リレーなど、万能選手として活躍。



1928(昭和3)年、早稲田大学商学部に入学。

アムステルダムオリンピックに出場。
走高跳は1メートル88で8位。
三段跳は15メートル21で、日本人初の金メダルを獲得した。



遂に永い間の苦心は報いられた。
日章旗が高々と掲げられ国歌が奏せられた時は自然と頭が下がり国旗をあおぐことさえ出来ず涙が自然にあふれ出た。
スタンドに待って居た選手諸君にかつがれて控室に帰った時にはまるで夢を見て居るようだった。

(中略)

永い永い競技生活を通じて初めて勝利の喜びにひたることが出来た。
成績は思わしくなかったけれども重い重い責任をはたし得た事は何よりも嬉しい。

(中略)

人見嬢も800で頑張って2等になった。
2つも国旗を揚げることが出来た今日の日はなんと日本にとって幸運な日だったろう。
私の一生の最も記念すべき日なのだ。
国の人々はどんなに喜んでくれるだろう。
敗れたならば合わす顔はないのだったがこれで同胞に顔を合わせる事が出来る。

「日記」より




文中にある「人見嬢」とは、100メートル、200メートル、走幅跳の元世界記録保持者、人見絹枝(ひとみ きぬえ)のこと。

織田が金メダルを取ったのと同じ8月2日、800メートル決勝で2位(2分17秒6)に入り、日本人女性初のメダリストとなった。



1932(昭和7)年、結婚。
負傷もあり、競技の第一線から退く。



1948(昭和23)年、JOC(日本オリンピック委員会)委員に就任。



1965(昭和40)年、早稲田大学教授に就任。



1964(昭和39)年、東京オリンピックで陸上競技の総監督を務める。



1967(昭和42)年、第1回織田幹雄記念陸上開催。



1982(昭和57)年、早稲田大学スポーツ功労者(第1号)。



1986(昭和61)年、故郷の海田町名誉町民に。



1988(昭和63)年、文化功労者。



1989(平成元)年、日本陸連名誉会長に就任。



1998(平成10)年、永眠。
享年93歳。



年表については、「「生誕100周年記念 織田幹雄年譜」早稲田大学競走部」を参考にさせてもらいました。



↓海田町の名誉町民については、こちら↓

「名誉町民」海田町ホームページ



↓海田総合公園にある顕彰モニュメントについては、こちら↓

「織田幹雄氏 顕彰モニュメントについて」海田総合公園



選択肢2の小掛照二は、甲奴郡上下町(こうぬぐん じょうげちょう。現・府中市上下町)出身。
日本陸連名誉副会長。

1956(昭和31)年、日本陸上競技選手権で16メートル48の世界記録(当時)を樹立した。



選択肢3の田島直人(1912年−1990年)は、1936(昭和11)年のベルリンオリンピックの三段跳で、16メートル00の世界記録(当時)で金メダルを獲得。

織田・南部・田島の3人で、オリンピックの三段跳競技で、日本が3連覇を果たした。



選択肢4の南部忠平(1904年−1997年)は、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックの三段跳に出場し、15メートル72の世界記録(当時)を樹立して金メダルを獲得した。

織田幹雄とともに出場したアムステルダムオリンピックでは、4位。



↓海田町についての過去の記事は、こちら↓

三村敏之に町民栄誉賞を贈ることにした町の名前は?



今日は、織田幹雄について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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元広島カープの三村敏之に町民栄誉賞を贈ることにした町の名前は?

2009年12月24日 05時45分09秒 | 海田町

5月に忌野清志郎、6月にマイケル・ジャクソン、9月にPP&Mのマリーなど、今年もいろいろな方が亡くなられました。
11月には元広島カープの三村敏之が亡くなられました。
初優勝を果たしたV1戦士で、亡くなられた方は初めてじゃなかろうか。


【問題】
11月、61歳で死去した元広島東洋カープ監督の三村敏之に、町民栄誉賞を創設して贈る方針を出した町はどこでしょうか?

1.府中町  2.海田町  3.熊野町  4.坂町


【ヒント】
現役時代、広島カープで打順1、2番を打った大下剛史と同郷。






【正解】
2.海田町


【解説】
広島県海田町は、文化やスポーツの振興に貢献した町民や町出身者を顕彰する町民栄誉賞を創設する。
町出身で11月に61歳で死去した元広島東洋カープ監督の三村敏之さんに贈る方針でいる。
町は、三村さんの功績について「長年にわたるカープの選手、監督としての活躍は町民の誇り」と高く評価。
今月、町民栄誉賞の表彰規則を制定し、三村さんの遺族に授賞方針を伝えた。
来年3月までに授与式を開く方向で調整している。
「故三村氏に海田町民栄誉賞」中国新聞社)


1975年のシーズン、その年移籍してきた大下剛史と打順1、2番を形成した(1番大下、2番三村)。
三村と大下は、同じ広島県安芸郡海田町の出身で子供の頃から草野球を一緒にした幼馴染。
(筆者注:大下のほうが、三村より4歳年上になる)
幼稚園、小学校、中学校、高校(広島商業)も同じ。
チームメイトが同郷もしくは同出身校というのは珍しく無いが、同郷で出身校も同じ、更に生まれた町まで同じで1、2番コンビを組むというのは、かなり珍しいケース。
「三村敏之」ウイキペディア)


三村敏之は広島商業から1967年にドラフト2位で広島カープに入団。
堅守と巧打で定位置をつかみ、1975年には主に2番、遊撃手としてリーグ初優勝に貢献。
1979、1980年の連続日本一など、山本浩二、衣笠祥雄たちと広島カープ黄金期を築く。
17年の選手生活で通算1567試合に出場し、1245安打、打率2割5分5厘、149本塁打、490打点、ベストナインを3度受賞した。
引退後は広島のコーチ、2軍監督を歴任し、1994年から5年間、1軍監督として指揮を執る。
優勝はできなかったがAクラス入りが4度で、緒方孝市(残念ながら引退されましたのう)、金本知憲(現阪神)たちを育てた。
07年12月に楽天の編成部長に就任していた。


言葉遣いの悪い同郷の大下とは違い、三村はスマートで紳士的な感じがした。
それが逆に、嫌いじゃないんじゃが、なんとなく親しみが持てないようなイメージにつながってしもうた。
(こんな風に感じたのは、わしだけじゃろうか?)


楽天に招かれたのは、楽天が三村を野村克也監督の後任にするつもりじゃったんじゃそうな。
その関係か、元広島カープのブラウン監督が、来期の楽天監督になった。
ご健在じゃったら、今ごろは野村のボヤキやり玉に挙がっとるんじゃろうか。


今日は、三村敏之について勉強をさせてもらいました。
今更ですが、ご冥福をお祈りいたします。


ほいじゃあ、またの。

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