ヒロシの日記

たくさんの人たちの幸福を願いつつ、常に自然な生き方を望む私の日記です。

銘酒を求めたついでに懐かしい思い出を辿りました

2018-11-19 20:04:26 | もくもく村
手に入れたお酒は、もちろん久留里の名水が生み出した「峯の精」です。



宮崎酒造店を後にし、山の中を軽トラで走ること10分で思い出の場所に辿り着きました。



電話をしても出ていただけなかったので中に入ることは出来ませんでしたが、クリスマスをむかえるためのリースが飾ってあったので、お元気だと信じています。

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今日はもくもく村にいました

2017-05-12 22:07:47 | もくもく村
やはりもくもく村は素晴らしいところです。

 
 
新しい建物がいくつか建って様子は随分と変わりましたが、変わらないのは専務様のお心と美貌でしょうか。

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検索キーワード「もくもく村 ヒロシの日記」でここに辿り着くあなたへ

2013-07-26 22:24:40 | もくもく村
 
次はお気に入りから来て下さいね♪  
 
 

 
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妻がもくもく村の仕事を断りました

2013-07-26 21:49:31 | もくもく村
妻のもくもく村との付き合いは私より古く、社外のスタッフとしてイラストとポップの仕事を専務様よりいだだいていました。

しかし専務様は無添加住宅に関わるようになってからすっかり変わられて、妻に対して雑な仕事の依頼しかしなくなってしまいました。 

結果として妻は、専務様からの繰り返しの手直しの依頼で、時間に追われることが多くなり、自分のための時間が十分に持てなくなってしまいました。

お金をもらっている仕事(妻)と無償のボランティア(私)との違いがありますが、専務様と私たち夫婦の間にある問題は根っこが同じでした。 
 
専務様は無添加住宅に関わるようになってからすっかり変わられてしまいました。 


私はあの麗しい専務様を変えてしまった秋田社長のことを残念に思います。


と言っても、今の私の気分は


       \(^o^)/


 
                       ・・・ですがd(^^)b
 
 




 
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今日はもくもく村にいました

2012-12-24 21:32:36 | もくもく村
今年一年の締めくくりとして、スタッフの方にご挨拶をするためです。

もくもく村の仕事をさせてもらっている妻と一緒でしたが、私の目的は専務様へのお別れのご挨拶と併せてもくもく村に残してきた物品の回収、もしくはそれらの後始末などをするためでした。

もくもく村を卒業することを決めたのは奇しくも半年前の6月24日でしたが、卒業の挨拶がその半年後の今日になってしまったのは8月24日に書いた通りで、突き指をした右手の親指の機能が元通りに回復し、痛みを感じなくなるまで待っていたからです。 
 
目的のひとつの残してきたものの回収はしませんでしたが、残された物品が有効に利用されるであろうことを確認しましたので、回収する必要もないと思いました。

8月10日に紛失が発覚したフィルムタイプのズームレンズ付き一眼レフ(私が以前使っていた)は、以前の関係で盗難などのリスクを承知で置かせてもらっていたもので、むしろ今までよく盗まれなかったと褒めてもいいくらいなので、今まで世話になったことを考えれば諦めもつくものでした。 
 
 
 
 
 
 
 
 
挨拶だけのつもりでしたが、いざとなると楽しい思い出ばかりが走馬灯のように浮かんで来ましたので、最後の最期と思って自慢の無農薬大根を10本ほど抜いてきました。 
 
 
 
帰りに専務様からいただいた、重厚なチョコレートケーキ(何と九州からのお取り寄せ!!)
 
 
 
しかし・・・相変わらずお美しい・・・。

何がって?

もちろん 麗しの専務さまのことでス。  
 
 
もくもく村に対しては、最後になってクレーム的なことばかりでしたが、一番大切にしたい私のもくもく村への思いを、いつかここに書きたいと思います。 
 

 
 

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もくもく村から貸し出していた機材と写真集が戻って来ました

2012-10-25 21:48:24 | もくもく村


紛失が分かっているカメラを除けば、8月10日の日記の写真にある分の大事な写真集は全て戻って来ましたので、一安心でした。
これらの写真集は、大事な方の手に渡る予定です。
 

 
←そうそうたるメンバーが名を連ねる写真集  
 
 
もくもく村の作業で負傷した右手親指もやっと良くなりましたので、そろそろ挨拶に行こうかと考えています。 
 
 
ちなみに怪我が『治った』かどうかの基準は、右手で鼻毛が抜けるかどうかです。 
 
 
 

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最後の挨拶はまだ先になりそうです

2012-08-24 21:27:28 | もくもく村
6月24日の記事で4年近く関わって来たもくもく村を卒業することを書きましたが、未だに専務やスタッフに対する最後の挨拶が出来ない状況にあります。

それは、6月13日に母親が亡くなってから、まだ母親関連で片付けがまだ終わっていないことと5月27日にもくもく村の草刈りの最中にやってしまったつき指が、まだ完全に治っていないからです。

もくもく村の皆さんとはせめて最後くらい笑顔でご挨拶をしたいと思うのですが、指の痛みを感じるうちはまだ心から笑顔になれない気がするのです。

はっきりと書けば、もくもく村の卒業を公言して以降、専務との間はよろしくありません。

私が専務に対して苦情を申し立てていることもあるせいですが、私が率直な気持ちを出せば出すほど逆切れをされるようなので呆れてしまいます。

もくもく村に抱いた夢が破れ失ったものも多い中で、指の痛みも抱え続けなければならないのは、いくら私でも堪え難いものがあるからです。
 
  
 





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もくもく村にはなかなか行けません

2012-08-10 22:40:12 | もくもく村

もくもく村に残してあった物品の回収と最後の挨拶が残っていますが、今年6月に亡くなった母親関連の用事がまだ残っているからです。
 
もくもく村に残してあった物とは、畑に使った資材や展示用のモデルハウスの展示の小道具として使ってもらっていたラジカセやカメラ、自然を写した写真集などです。 

         
 
しかし、今日妻から連絡があって、置いてあったカメラが無いことを知らされました。 

最後にカメラの存在を確認出来たのは6月27日で、もくもく村(無添加村)が千葉テレビの取材を受けた日でした。 
その時にモデルハウス内にあった私のカメラの存在を、テレビカメラはしっかりと捉えていました。

それがこの画面です。
中央のテーブルの上の端にある黒いものが、私のかつての愛機であるMINOLTA X-700です。

そして私がもくもく村卒業宣言を出したのが遡る6月24日でしたが、この時点でもくもく村の専務様には、そのことをメールで直接伝えてありました。

私のもくもく村卒業宣言は、当然ながら提供資材の引き取りを含む撤収の宣言も意味するものですので、私が撤収宣言をしてからカメラが紛失するまでの間に、紛失防止のための配慮がなされていなかったことを意味します。
 
提供(貸し出し)した資材の紛失も、卒業宣言をする前とした後では、その意味が違うのです。
営業中ならばいつでも誰もが入って見学出来るモデルハウスの中では、当然紛失のリスクも高いです。
 
それを覚悟の上での提供は、もくもく村と夢を共有しているからこそだったのですが・・・。 
 
去る者は追わずとは言いながら、もくもく村の不誠実な対応には、呆れるばかりです。 

 

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もくもく村のことは、専務に始り専務で終わりました

2012-07-12 20:01:32 | もくもく村
もくもく村の専務様に初めてお会いしたのは、2006年3月25日だったと記憶しています。

その当日の日記にもくもく村のことはありませんが、その日に撮った写真を使って2011年3月5日に記事を書いています。

ボランティアとして初めてもくもく村のイベントに参加したのは、2008年10月5日前日は準備で参加)のことでしたので、もくもく村との関わりはまだ4年も経っていないことに驚きます。

何故ならば私にとってのその4年間は、それ以上に長く感じるほど沢山の思い出深いことがあったからです。


私のもくもく村での活動は、私のやりたいことを専務様に受け入れてもらうことから始りました。

あの頃私は確かに自分の夢と専務様が見る夢とを重ね合わせていたのです。


しかしある時期からもくもく村は変わってしまいました。

それでも私は、もくもく村でしか出来ないパフォーマンスを望みに、先日までずっとしがみついていたのですが、ここ2年くらいの間の堪えていたものを、ついに母親の死をきっかけに爆発させてしまいました。 

それは、専務が私と私の大嫌いな母親の間のことに干渉したことと、私の夢をもくもく村の未来に重ねることが出来ないと分かったことからです。 

私を受け入れて下さったのは、もくもく村の専務様でしたが、私を現実に引き戻したのも専務様でした。

そして・・・先日のもくもく村でのパフォーマンスで、自分のミスではありながらも負傷してしまったことがきっかけだったかも知れません。
 
この傷(突き指)はずっと疼いて、私に警告を発してくれていたのです。

『あそことはもう止めにしよう』と。。。 
 
 












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もくもく村のことでは、随分と我慢をしてきたつもりです

2012-07-03 21:36:47 | もくもく村
6月24日の記事で『仏の顔も三度まで』と書きましたが、細かいところを挙げればそれどころではありませんでした。

もくもく村で収穫したじゃがいもを箱に入れて渡したつもりが、数日そのままに外に放り出されていたり、配ってもらったりスタッフの方々に利用してもらうつもりで渡した大根がそのままになって萎びていたり、私のブログの紹介で『もくもく村の菜園をつくってくださっているヒロシさん。』と書きながら、連絡なしに私の畑が無くなってもくもく村のスタッフによる畑に替えられていたことなどです。

収獲した野菜を配ってお客様に喜んでもらったり、道路側の斜面の草刈りをした後の爽快感が何ものにも替え難かったことで、もくもく村とは利害関係が成立していたのですが、さすがに無神経としか言わざるを得ないことが積み重なって限界を超えてしまったのです。

我慢するにはそれだけの理由が必要でした。

それは同じ夢を見ると言うことでしょうか。
同じ夢を叶えるためなら、細かいところはお互いに目を瞑ることが出来るでしょう。

以前のもくもく村にはあって、今はないものがその夢でした。
私は私の見る夢のないところにいつまでもいるつもりはありません。

しかし失ったものは大きいです。

片付けながら誰かの約に立って欲しいと思ってバザー用に準備した不用品と一反を超える広さの畑から産み出される農産物の半分以上が行き場を失いました。

しかしそれでも私には、受け得入れられないものがあったのです。
 
 
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