ひろこのページ

作品と音楽と、それから日々のいろいろ。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

TRASH-UP

2012-10-12 16:29:26 | 日記
届いてます!!

この記事をはてなブックマークに追加

岸本佐知子編訳『居心地の悪いの悪い部屋』、マーセル・セロー著、村上春樹訳『極北』

2012-09-18 13:21:19 | 日記
翻訳された詩をいくつも読んでいたら、どうしても翻訳の小説を読みたくなって、本屋に寄ったついでに、何でもいいからとにかく面白いものをと思い手に入れた二冊。

岸本佐知子編訳の『居心地の悪い部屋』はご本人があとがきに書かれているように、読み終わったあと、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなってしまうような(良い意味で)不思議な読後感が残るアンソロジーだった。
とても読みやすく、興味深く、一気に読んでしまった。あまりにすらすら読めてしまうので、それが逆に不安になるくらい。少しくらいは書き手と読み手の間に(あるいは、書き手と訳し手との間にの?)宗教的齟齬、文化的齟齬があってもいいような気がするのだけれど、よい小説というものは、そういった何やかんやを取っ払ったところにあるのだろう。

個人的には、彼女と別れたところから物語が始まるレイ・ヴクサヴィッチの「ささやき」や、ランニング・シーンが延々と続く、ジョイス・キャロル・オーツの「やあ、やってるかい?」(これは最初から最後までひとつながりの文章という荒業だった)、場違いなドレスを着せられたような(しかも、サイズが一回り以上小さく、デザインも古臭い)ルイス・ロビンソンの「ダイバー」、静かだけれど一瞬にして凍りついてしまうような圧倒的な暴力を描いたブライアン・エヴンソンの「父、まばたきもせず」などが印象に残っている。
小説だからこそできることってあるんだよなと、しみじみ思いながら読んだ。

マーセル・セローはかの有名な旅行記作家(というか何というか)ポール・セローの息子さんである。ポール・セローは、同じく村上春樹訳の『ワールズ・エンド』という短編集がとにかく好きで、通して5回くらいは読んだんだけれど、どうやら彼の息子さんたちは三人が三人とも作家稼業をやっているらしい。すごい親子なんである。

『極北』は、とにかくタフで骨太で豊穣で同時に殺伐としていて読者に対して挑戦的でまた突き放したような優しさのある、どこを取っても読み応えのある長編小説で、とにかく一気に読んでしまいたかったのに、状況がそれを許してくれなくて(途中、2日間の中断があった!!)、それがストレスになってしまうような読書体験だった。

内容はさておき、個人的な話だけれど、田舎育ちのせいか、子どもの頃から、誰かが土をおこし、肥料を巻き、時期がきたらそこから実をもぎ取り、加工し、間髪をおかず食べる、そういう光景が私にとっては長いこと当たり前だった。例えば、祖母が育てたトウモロコシ。もぎたてのあの甘さ。土の香がするような麦、うどん。うどん粉をひくときの、緊張感。じゃがいも、夏野菜の数々。
それらは簡単にできるものだと信じていたし、未来永劫続くものだと信じてもいた。例えば、祖母が死んで、夏の食卓にもぎたて・茹でたてのトウモロコシがのぼらなくなってがっかりしても、それは一時的なもので復活させようとすれば簡単にできるものだと信じていた。ふだんは意識すらしたことのない信頼感。

現在、私たちが共通して抱えている不安感は、そんな当たり前の光景・信頼感が消えつつあることに端を発していると考えてもあながち間違いではないだろう。これって、食べても平気なの? 産地はどこ? そこって住めるの? 病気は? etcetc...。それは、多分、足元をすくわれるような不安感だろうし、それまで依って立っていた基盤を根こそぎ奪われた怒り、悲しみ、心細さだろうし、もっと大仰に表現すれば、還るべき場所をなくした者の喪失感に近いかもしれない。
自分がどこから来たかはわかる、どこにいるのかも、おおよそはわかる、でも、どこへ行こうとしているのか、どこに行くまいとしているのか、それがわからない。
そういうとき私は(或いは、そういう場所で私は)、何をとるべきで何ををとるべきでないか、常に再考を迫られるだろうし、捨て去ること、ときには愛するものや、愛すること、私自身さえも捨て去ることを余儀なくされるだろう。例えば子供がいたとして「愛する子供たちのために、これだけは遺してやりたかった」と言うかもしれない。言わないかもしれない。
果たして、愛するものに何かを遺すとはどういうことなのか? 何を遺したら、遺せたと言えるのか? 食糧、家屋、土地? それらはそもそも誰のものだったか? 愛するものでさえ、或いは私自身でさえ、私個人の所有物であったためしはなかったのに。私自身すら遺せないものに、他に何を遺せるというのか。

そこには宗教もなく、政治もなく、倫理も歴史も文字も夢もない、美醜もなく、善悪もない、私の影に似た何かが転がる石のようにいるだけだろう。
だけど、それって、今の私と大した違いがある?

そんなこんなを、考えざるを得ない小説だった。

誓って言うけれど、誰かに何かを伝えたくてこんな日記をパタパタと書いているわけではないし、ましてや反省を促すためでもないし、扇動するために書いているわけでは決してない、立派な主義主張があるわけでもない。多少はセンチメンタルになっているかもしれない。だけど、読んで感じたことを、できるだけ正直に、むしろ私自身のために書いているだけなので、どうか反論のコメントなんて送ってこないで下さいね。

『この世界はいやらしい年老いた蛇だ。彼女は奸計に長けた老女であり、私もまた奸計に長けた老女になろうとしている。そしてこの惑星で最後まで生き残る人間は、奸計に長けた老女だろう。彼女はニワトリを飼い、キャベツを育てる。幻想を一切持たず、彼女のすべての子供たちより長生きをする。世界は感傷を解さず、情けを持たない。私は彼女の心を知ろうと、懸命に努めた。おかげで少しはそれがわかるようになったと自負している。あるいは私は彼女に似てきたのかもしれない。ただし、彼女は永遠に生きるが、私はそうではない。』

二冊とも超超超オススメです。

この記事をはてなブックマークに追加

マルタ

2012-09-16 14:24:45 | 日記
猫のマルタの肛門嚢炎が破裂して、急遽、動物病院に来ている。
元気なことは元気なんだけれど、しきりにお尻の周辺をなめていたので、朝、よく見てみたらひどいことになっていた。
今はお昼休みなので病院の駐車場でマルタの横でこれを書いている。

日曜日で主人が帰国していて本当によかった。

来る時に車の中でもう何回くらいこの病院と家とを往復したかなあとぼんやり考える。何気なく「もうあの病院、行きたくないんだよなあ」って言ってみたら「俺も」とのこと。
変なところでものすごく気が合うのです。

マルタ自体はかなり健康で丈夫な猫で、泌尿器科系の病気に一度なったきりであとはずっと医者いらずだった。
オーティスとカールに手がかかったので余計にそう感じているのかもしれない。
甥っ子の出現もあって、このところめっきり甘えん坊になった。餌も手であげないと食べないときさえある。
私と主人が一緒にいると、何を勘違いしているのか、必ず間に入ってゴロゴロ訴える。そういう姿を見ていると、猫は人につくのではなく家につくという言葉が嘘のように思えてくる。

とにかく早く元気になって欲しい。
それだけです。


この記事をはてなブックマークに追加

バースディ・パーティ(2)

2012-07-06 16:05:38 | WORKS
 レースがふんだんに使われたドレスを着、手にはドレスと揃いのおおぶりの扇を持っている。胸元にはリボンがあしらわれ、腰はコルセットできつく締められていて、そのアンバランスさにきみは不意にあやうくなる。スカートは重く膨らみすぎていて、それは子どものころに食べたソフトクリームを思い出させた。不恰好すぎてどこから食べていいのか分からなかったし、ぐずぐずしていたためクリームは溶け出し、反対側に崩れて落ちてしまった。きみは地面のソフトクリームを見て、きみの母親と姉の顔を見て、それからまたソフトクリームを見た。神学校からの帰り道。凍りついたように誰も何も言わなかった。その夜、きみは初めて夢精した、暗い吹き溜まりのような射精。今までずっと忘れていたのに。
 ドレスはいかにも大仰な代物だったけれど、それに比べて三人の顔や髪は大したことはなかった。というよりも顔や髪は年齢相応だというほうが適している。もちろん、きみが彼女たちの正確な年齢を知るよしはないのだが想像はできる。髪は大雪がふった朝の庭のように真っ白で、後ろで一つにまとめられ、部屋のLED電気の明かりを受けてきらきら光っている。思わず手を伸ばして彼女たちの雪だるまを撫でたくなる。だがもちろんそんなことはできない。いたずらに歳だけとってきたわけではないのだ。
 三人は右からマリア、ソフィア、ジョゼフィーヌだと名乗った。いつも右からマリア、ソフィア、ジョゼフィーヌだという。でもきみには誰がマリアで誰がジョゼフィーヌなのか区別が付かない。それくらい三人は似通った姿かたちをしていた。
それにしても、なんだい、この部屋は、ずいぶん寒いじゃないか、真ん中にいた女性が言った。ソフィアだ。そういえば、三人が部屋に入ってきてから更に二度ばかり室温が下がったようだ。きみは三人にお茶を振舞おうとして、結局やめておく。様子を見るということも人生には必要だから。
 でもね、どちらでもいいことなのよ、と左端の女性が言った。名前のことだと分かるのに呼吸五回分の時間がかかった。
 結局のところ名前は記号に過ぎないわけだから。
 でも名前がないと後ろから声をかけたりするとき不便じゃないかね、きみは不服そうに反論する。何でもいいから名前は欲しい。
 だからあんたはちゃんとジョゼヒーヌって呼べばいいさ、ともう一人が言う。
 ジョゼヒーヌ? 残りのふたりは大声で笑い出す、ジョゼヒーヌだってさ。
 いいかい、あんたはあんたの心のままに呼びたいように呼べばいいんだよ。マリアってね。そうすれば、あたしたちの誰かが返事をする。
 そうさ。三人のうち誰かひとりが返事をする。ふたりいっぺんに返事をすることはないからね。どうだい、たいしたもんだろ?
 ところであなたたちは一体ぜんたい、どうしてわたしの部屋にいるのだろう? なんのために?
 誕生日プレゼントだよ。
 誕生日?
 プレゼント、ちゃんと持ってきたんだよ、あんたのために。一〇一歳、誕生日、おめでとう。
 
 でも彼女たちは何も取り出さなかった。花束も、綺麗にラッピングされた箱も見あたらなかった。砂糖菓子のバースディ・ケーキも。
 何もないじゃないか、きみは苦笑して言う。三人はにやにや笑っている。きみは思わず後ろを振り返る。自分が笑われているとは思わなかったからだ。
 これでも一応いろいろ考えたんだよ。
 あんたはいわば、一世紀まるまる生きて今日から新しい世紀を生きはじめる。だから特別なんだよ。スペシャルさ。
 新しい世紀? スペシャル? きみは何も答えられない。だから黙って三人の言葉に耳を傾ける。黙って何かに聞き入ることはきみがもっとも得意とすることだ。何の苦もない。もし何か言いたくなったら、言いたくなったということ自体忘れてしまえばいい。季節の風が窓に当たってぱらぱらと細かい音を立てている。柱時計が絶え間ない時を律儀に刻んでいる。正午。それを合図にしてきみはキッチンに向かい、客用ティーカップを三つ用意する。あきらめたのだ。三人の女性は部屋のさかいの丸テーブルに腰を下ろす。あとからきみがしずかに席につく。きみは北、右隣にいるマリアは東、ソフィアが南、左隣のジョゼフィーヌが西。遠くから眺めたらそれは古代異教徒を倣った食膳儀式のようだったろう。ひととおり手順を踏み、時間になったら反時計回りに四十五度進んで、きみは北西、マリアは北東、ソフィアが南東でジョフィーヌが南西、そこでまた儀式。計八回セットを一日ニ回繰り返す、神に誰をも裏切らせないために。
 もうじきまた電話がくるよ、三人のうちの誰かがきみの耳元でささやく。ちゃんと用意してきたんだ、ともう一人。
 逃れられないんだよ、最後に三人は声をそろえて言い放つ。
 
 誕生日、おめでとう。
 きみのための宴はたったいま始まったばかりだ。(おしまい)

この記事をはてなブックマークに追加

バースディ・パーティ(1)

2012-07-06 15:56:22 | WORKS
 誕生日、おめでとう。
 きみの一〇一歳の誕生日は夜明け前から霙まじりの雪のふる膚さむい冬の日だ。同じくらい歳をとった柱時計の鐘が、明け方、今日という日を告げた、その最後の響きにきみはようやく重いからだをベッドから起こす。かちかちに凍りついたオークのベッド、そこから焚き木のように枯れた両脚を下ろすのに、けっこう長い時間がかかった。呼吸十二回分といったところだ。セピア色に変色したブルーのカーテンのむこう側には冷たい外気があふれていて、そのため床板はアイス・バーンになっている。きみは立ち上がり、脚を踏み出すたびに床に何かしるしのような波紋が広がるのを待ってはみるが、薄い寝巻きの裾が薄い風を部屋におこしただけだ。ささくれ立った指先で少しカーテンを開け、夢を見ているように白く曇った窓ガラスを右手の握りこぶしの腹でぬぐうと、部屋のむこう、どこかに澱んでいた時間はあっという間に溶けて流れ出すだろう。
 誕生日、おめでとう。
 部屋の中央には世紀の変わり目を示すかのようにものものしく黒木の丸テーブルが置かれてある。曇天に浮かんだ電線に似た鉄製の椅子が四脚、椅子の上には陶製のペンギン、ライオン、トラ、カンガルーの置物。それぞれ東西南北を向くように注意深く配置されている。それを見てきみはほっとする。ここは紛れもなく自分のための場所なのだ、そう思いながらペンギンの置物を手に取り、何度かてのひらで転がしてみる。冷たくて心地よい重さ。この冷たい重さにきみはいささか覚えがある。その感触はきみをどこかなつかしい場所へと運んでいきそうに思える。ポプラ並木、バラのアーチ、白いベンチ、大きな犬。きみは目をつぶる。だが、どうしてもその場所の名前が思い出せない。もう少しなのに。きみは目を開ける。と同時にキッチンの食器棚に押し込んだクラシックな黒電話が鳴り響く。きみは電話に出ようかどうしようか迷った挙句(呼吸三十回分)、ようやく腹を決めキッチンに向かって歩き出す。電話は腹立たしそうに鳴り響き、きみの生を象徴するかのように、とことんしつこい。
 壁際にベッドを置いたリビングが動きを止めた真冬なら、丸テーブルをさかいにして、キッチンはあたたかな南国ふうだ。ベージュ色の食器棚、白い床。トロピカル・イエローの冷蔵庫とシンクタンクはセットになっている。だけど寒さは変わらない。思わず身震いしたきみのキッチンの黒電話という通信手段はシンフォニーの途中におもむろに置かれた休符のように唐突すぎて不吉だ。だから二十年前、食器棚に押し込んだのだ。きみに何かを語りかけようとする人が、もうこの世に誰ひとりいないということを無音で告げる黒電話なんて災厄以外の何物でもないだろう。それを今、きみはゆっくりとシンクタンクの横に下ろしている。早くは動けない。近頃、体の節々が、氷の杭を食い込ませたように痛むのだ。なんといっても今日できみは一〇一歳、ケガなどしてこの日を台無しにしたくない。
 もしもし。
 受話器を耳に持っていくと――受話器はヒッタイト人の歴史のように、或いは南極の海に浮かぶ氷のように冷たく重い―――それはすでに死んでいた。まったく、考えるまでもないじゃないか。この部屋の電話番号を知っている人間なんてもうこの世にはいないのだ。きみは気持ちを取り直して茶の湯を沸かす。急須を取り出し、苔でできた茶葉を入れる。飲んでいるというのを聞いたことはこれまで一度もないが、苔茶はほかのどんなお茶よりも体があたたまる。そして渋みが奥ゆかしい。背中のほうで空腹の気配がするが、きみはとりあえず、さいしょの茶は捨て、二番目を注ぎ、時間を置く、そして寝巻きを着替えた。カップを持って丸テーブルのトラの場所にようやく腰を落ち着けると、再度電話が鳴り響く。でもきみはもう動かない。どうせ頭のおかしいやつが、頭がおかしくなりそうなことをわめき散らすために掛けてきているのだ、そんなことに大事な時間をさきたくない。けれど時間のことを考えるときみの心は混乱する。一〇一年という時間は大陸を横切る大河のようにあまりに長く深く、今という一瞬の水滴はあまりにはかない。だからきみは昨夜みた夢を思い出してその場をやり過ごそうとする。青い封筒の封を切ると、そこには読みきれないほど長い手紙が入っていた、青い便箋、差出人はなく、きみはそれが過去の自分からの手紙だと直感する。きみは返事を書くために同じような青い便箋を探すが、どうしても見つからない。青い便箋はこの前の冬、暖を取るためにぜんぶ燃やしてしまった。
 誕生日、本当におめでとう。
 三杯目の苔茶を飲んでいるとき、ドアにノックがあった。黙っていると、ドアはぎしぎしという地球の地軸を無理やりもう五度傾けたような音をたてて、こちら側に開いた。三人の女性がきみを見つめて微笑んでいた。
 三人は間違いなくきみのための女性だ。認めようと認めまいとそれはあまり関係ない。ではきみの何が三人に関係しているかというと、それは血だ。きみの体を今も流れている血だ。その血がきみをここまで運んできたし、彼女たちをここまで連れてきたのだ。三人は三人とも似たようなかっこうをしている。それは十八世紀末のフランス貴族を思い起こさせる。何とか伯爵夫人や何とか男爵夫人。革命前夜、斬首台の影におびえながら、夜な夜なパーティからパーティへ渡り歩き、庭の大木の陰で貪るように繰り返したオーラル・セックス、咋に不倫の悩みを打ち明けあった日々・・・。(続く)

この記事をはてなブックマークに追加