味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

夫れ孝は、親に事ふるに始まり、

2017-07-14 17:17:48 | ブログ
第3119号 29.07.15(土)

夫れ孝は、親に事ふるに始まり、君に事ふるに中ばし、身を立つるに終る。親を愛する者は敢て人を悪まず。親を敬する者は敢て人を慢らず。愛敬親に事ふるに盡して、徳教百姓に加はり、四海に刑(のっと)らる。此れ天子の孝なり。『小学』(明倫第二)69

 かく、孝というものは、親に仕えることに始まり、君に仕えて国家のために心身を労する、すなわち忠によって、その内容を発展させ、さらに人格の完成によって、物事を成就する。父母に対する愛敬が天子なる権威において下されれば、孝は直ちに徳教となって、天下の人々に及び、その法則となる。天子の孝の完成である。70

 【コメント】<親に事えることに始まり、君に事えて国家のために心身を労する、すなわち忠>の精神でもって事に臨むことは大変良いことだと思います。とにかく全精神でもって物事に誠心誠意尽くすことが大事でありましょう。

 大変な異常気象が続いています。脚下照顧しながら、謹み深い日々でありたいものです。
 このブログでもケントギルバード氏の著書に言及しましたが、皆様、是非お読み頂きたいものです。

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『人としての生き方』(第73回)

 福島での三期・十二年間、特別職として政務秘書をやりまして、その後も、松平先生の後の知事の相談相手として八年間、ちょうど福島には二十年おりまして、この間、そうした立場にあって、求められ、また、必要に応じて書くというような形で、この間に十五冊程の本を出しました。これは本当に拙いものでありますけれども、先生の教えが少しでも皆にわかってもらえればということで、人間としての生き方を説いて参ったわけでございます。
 結局のところ、人物の内容を練る努力をしなければ、どんなに頭が良く、能力があっても駄目なんです。
 最近、特に感じておりますことは、世の中の喧噪といいますか、とくに問題はテレビであります。テレビを見ていて落ち着いて見たいという番組がない。喧噪で刺激を与える、こういうものばかりを求めていったら、日本人は一体どうなってしまうのかとつくづく感じます。そういう時に、わたくしたちがどうあるべきか。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第64回)

 これまでの藩士たちの儒学一本の姿勢に疑惑を覚え、変化が生じつつあることが知られます。
 また某日には、ドイツに向けて旅行中の忠宝が、「麒麟を見られた」ということを聞き、黒崎は、
「昔から麒麟があらわれるのは瑞兆とされる。麒麟はだれのためにあらわれたのか。同行の川村(純義海軍大輔、忠宝は川村と同船していた)とて、せいぜい君子にすぎまい。どうして麒麟の祥瑞にふさわしい人といえよう。とすれば麒麟は誰のために姿をあらわし人の目にふれたのか。西洋の人相見が、公(忠宝)を観て大いに驚き、「天下は広く、人類の数は限りがない、といっても、いまだかつて公のような尊いお方を観たことがない」といったそうだ」
 「ああ、麒麟よ、こいねがわくは、吉兆は東方にありと告げ知らせよ、と願うと麒麟はうすぼんやりと姿をあらわして歌った」
 『あきつしまわが日の本の北の方/ここ鳥海のみんなみの/わが庄内に聖王は/生(あ)れましまして輝けば/日もまた月も仰ぎ見て/諸人不変人の倫/文武輝く大君は/とわに光を放つらん』私は愕然として夢見る心地、否、否、思えばこれは現実である。夢ではない」
 と書いております。ドイツに送った忠篤、忠宝への期待の何と大きかったことか。開墾士たちは、この期待だけを胸にして、不毛の山林に敢然と立ち向かったのでした。

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