味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

文を以て友を会す。『論語』

2016-10-29 11:32:46 | ブログ
第2860号 28.10.29(土)
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文を以て友を会す。『論語』
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 詩書礼学の学問を基にして友を集める。それが、修養を基本とする君子の交わりである。61
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 【コメント】『南洲翁遺訓』をはじめ古典を学びながら、空手道教室で子供たちと付き合っています。それを天が知ってのことなのでしょう。聖人と称してもよい素晴らしい人々が集ってくれます。大変有難く感謝をしています。
 次は『聖賢の訓戒』にご紹介する、一つの例です。

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天の将(まさ)に大任を是の人に降(くだ)さんとするや、必ず先づ其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨を労(ろう)せしめ、其の體膚(たいひ)を飢えしめ、其の身を空乏にし、行うところ其の為さんとする所に佛乱せしむ。『孟子』(告子章句下) 
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 「天がこの人に大なる任務を与えようとする時は、必ずまずその人の心や志を苦しませ、その筋骨を疲れるほど働かせ、その一身を窮乏させ、する事なす事、そのしようとする意図と食い違うような苦境に立たせる。こんなにもこの人を苦しめるのは、天がその人を発憤させ、その人の本性を忍耐強いものにし、今までよくする事の出来なかったものをなし得るように、その人の能力を増大せしめ、そして大任を負わせるに足る大人物にしようとするものである。」
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 数年前、ある小学校教師から、相談があるといって道場訪問がありました。特別支援学級の専門家である教師は、本校に席を置いたまま、指宿の小学校を拠点に界隈の小学校の教師たちに専門知識を教える指導を掌っていたのでした。任期の期間を終え、本校に帰ったら、仲間の教師たちが歓迎の宴を開催してくれました。仲間の方々は普段着でしたが、久々に本校に帰った教諭は失礼のなきようにと正装をして参加したのでした。少しく酒が回った頃、酒癖の良くない男が、着任した教諭のネクタイを引っ張りお前は何という態度だ、とクレームをつけたのでした。いきなりのクレームに吃驚した教諭は、どうしてよいか分からずパニックに陥りました。
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 翌朝、教諭は、出勤時間になってもグズグズして自宅を出ないものだから、夫人が何をしているのですか、と言いました。学校に行きたくない、仕事を辞めたいと夫人に言ったのです。そして昨夜の出来事をかいつまんで話ました。夫人は誰かに相談してみたらと助言をしました。そこで、知り合いの自動車会社の社長に相談に行きました。社長は一通り話を聞いたところで思案し、錦江台の空手道場に行き再度相談をしなさいとアドバイスをしてくれたのでした。
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 初めて道場にて対面した教諭は、清廉潔白を旨とする人格美豊かな人間性の持ち主だと直ぐわかりました。教諭は、懇親会の模様を詳細に飾ることなく話してくれました。話を聞いて、今時、こういう初心な先生がいたのかと思う程、純真そのものでした。幼少時から勉強一筋で、人と喧嘩をすることなく、誠に真面目な人生を歩いて来たと受け取りました。今時の先生は、労働運動などの行き過ぎで、人間性に首を傾げざるを得ない人が多い中、誠に真面目一筋に生きてきた人でした。一時間半位であろうか、一通り聞いてから、私は、
「おめでとうございました。」
 とお答えしたのです。それを聞いた教諭は、人が悩んでいる状況を話し相談に来たのに何という対応だ、という怪訝な顔をしました。そこで私は、先に書いた『孟子』の言葉を説明しました。
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 『孟子』に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず其の心志を苦しめ----」という言葉があります。
 貴方の状況は、天が貴方に試練を与え、大人物にしようという天の導きだと思います。それらをグッと堪え、これからの人生に処してください、とお願いしたのでした。
 近来稀に見る教諭は、大変真面目にして英邁な教諭でした。あれから四年、拝見出来る人物像は、本件に執筆し始めた聖人の域そのものでした。こういう聖人と交流する機会を得た天のお恵みであったと感謝の念一入であります。『論語』に言う、「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」とはこのことか、と私は反芻しました。
 このような素晴らしい人がどうして誕生したかと云うに、家庭環境がありました。ご令室様も小学校で同様に教鞭をとっているのでした。お互い相思相愛で結ばれた夫婦は、世間の人が羨むような甘い生活の中に、お互いの信頼の基調として厳しい日々を営んで来たのでした。
少しく永くなりましたが、ご海容賜りたく存じます。
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 多くの古典にこのような話題が満載されています。国家の方向性の舵とりが少しく迷走気味であるが、今後を明確にするため、今こそ漢籍を繙くことが大事だと思う次第です。おもてなしを基調としながらも、揺らぐことのない国家・大和であって欲しいものです。
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『臥牛菅実秀』(第395回)
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 大久保が林、赤沢に会ったのは明治十一年四月であったが、翌五月に麹町清水谷で島田一郎らに暗殺されてしまった。島田は元陸軍将校で、西郷に対する大久保の冷たい仕打ちに憤っていたものであった。
 大久保の死後、政府の産業政策は、これまでの官営事業、士族授産から民間資本の育成に転換していった。
 松ヶ岡開墾場は、このころをさかいにして守成期に入り、苦難と貧窮の時代が長く続いた。『下妻長順手控』を読んでみても、思わず溜息のでるような苦闘の日々であった。

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