味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

爾に出ずる者は、爾に反る。

2016-10-17 09:20:18 | ブログ
第2848号 28.10.17(月)
.
爾に出ずる者は、爾に反る。『孟子』
.
 おまえのなした言行は、おまえにかえる。すなわち善には善がかえり、悪には悪がかえってくる。(曾子のことば)
 魯との戦いて鄒軍の将校が33人戦死したのに、その部下の民兵は一人も死ななかった。鄒の穆公が困って相談したとき、孟子は、ふだんの将校の行いが悪いから民はしかえしをしたのであると教えた。100

.
 【コメント】この言葉は正論として捉え、お互い心したいものです。こような訓戒は随所に出てきますので、いろいろな事象を考察してみたら、まことによく当っているようです。
.
 ですから、他人様がどうのという前に、自らの日々の歩き・動きに注意したいものです。

.
 ノルウェーに教育研修に行かれていた中島先生がお帰りになったと思うのですが、土産話を聞くのが楽しみです。
.
 今、9時50分、指宿の大師範から、生きていますか、と電話がありました。枕崎へ行って参ります。
.
 午後3時、自宅に帰りつきました。
--------------
『臥牛菅実秀』(第383回)
.
 親子兄弟の肉親同士、同郷の先輩後輩が、互に敵となって戦わなければなになかった内乱の悲劇であり、はかりがたい運命の変転という外はない。
.
 加藤景重は城山攻撃のとき、再び傷を負うて長崎病院に収容された。傷いえて東京に帰り、鱸成信の下宿していた家を訪ねてみると、その家の老人は涙を浮べて鱸の戦死を悼み、その遺品の整理を頼むのであった。見ると遺品の中には西郷隆盛の『一貫す唯唯の諾』の書幅があった。
 教導団時代、鱸と加藤は鹿児島県人の宮里正俊と深い交りを結んでいたが、征韓論のとき、宮里も郷里鹿児島に帰ることになった。いよいよ別れる日、宮里は永訣の意をこめたのであろう、秘蔵の書、三幅を二人に贈った。その中の一幅がこの西郷の書であった。加藤景重は鶴岡に帰省のとき、この書幅を携えて帰り、鱸成信の遺児に渡したのであった。

----------
『農士道』(第658回)
.
 随ってそこに働く人々には、自から最も緻密なる注意が必要となって来るのである。勿論農業と雖も、真剣にやるには、同様の緻密なる注意がなければならぬのであるが、然し、何といっても此の點は工場に学ぶべきものがあると思ふ。
.
 三、規格(法)にかなった熟練、今日の工業に於ては、ねじ一本作るにも、ピン一本作るにも、規格に合ったものを作るといふことが絶対に必要なのである。そしてそれを作る為には、高級な大仕掛の機械を操作せねばならぬ。随ってそこには当然、一切の作業が規格に適ひ、正しき操法に従って、熟練するといふことが必要になって来るのである。生きてゐるものを取扱って行く農業を、何も工業と同様であれといふのではないが、然しそれにしても猶、これらの事は他山の石として十分学ぶべき點があるではあるまいか。近来私共が「農術」-----詳しくいへば「農業操術」-----の研究に着手してゐるのも、實はこのやうな事を感ずるが故である。

-------------
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 上善は水の若し。 | トップ | 吉人、善を為す。惟れ日も足... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む