味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

酔古堂剣掃より

2017-06-02 09:20:15 | ブログ
第3076号 29.06.02(金)

酔古堂剣掃の冒頭の紹介

 「穢国悪世」の現代に読む書


 仏典『悲華経』の中に「穢国悪世」(えこくあくせ)という言葉があります。現在のわれわれの世の中は、本当にこの言葉の通り、穢国であり悪世であり、その意味では末世、あるいは衰世と言うてもいい。このお経は日本の僧侶でもまだ知らない人が多いけれど、実にいいお経であります。その中に「西方極楽浄土に往生するなどというのはまだ浅いもので、穢国悪世に成仏することこそ本当の菩薩大悲である」とあります。私はときおり「縁に触れる」と言うのですが、それこそが菩薩大悲の至極であります。この悲しみという感情は、人間のいろいろの感情の中の至極であって、人間そのものを表す。喜ぶという感情もある。楽しむという感情もある。怒る、悔やむなどといろいろの感情があるが、あらゆる感情の中で、悲しむという感情ほど人間そのものを表す至極はありません。その悲しみに「大」の字をつければ「大悲」になります。観世音菩薩のことを大慈大悲の至極という所以であります。ですから、母の一番貴いところを「悲母」と言います。明治画壇の代表的存在であった狩野芳崖に「悲母観音」の名画があるが、「悲母」という言葉は、母・女性の至極の表現なのであります。
 今日の日本はまさに穢国悪世です。どう贔き目にみても汚れた国であり、悪い世の中です。その穢国悪世を捨てないで、穢国であればあるほど、悪世であればあるほど、菩薩にすればこれ以上の悲しみはない。いわゆる大悲の至極なのであります。この悲という字に「願」をつけると「悲願」となる。楽観ではいかんので、悲願ということが一番尊い。菩薩の悲願こそが大悲の至極なのであります。
 したがって、こういう穢国悪世を、ただ単に非難したり憎んだり憤ったり、それはいろいろの感情があります。けれども、国民として、識者として、一番の至極の感情はやっぱり悲しみということであります。特にわが国の指導者たちは、それこそ「大悲」「悲母」の心を持たなければいかん。そして国民もまた今日こそ生きる根本において、慈悲の学問、慈悲の信仰、慈悲の願い、いわゆる悲願を養うべきである。そういう心があって初めて、その中に人間としての真の楽しみが発見されるのであります。人間の感情というもの、人間の良心というものはいかにも神秘なものであって、心のそういう最も深い琴線に触れるような学問をすることが非常に尊いのである。それにはやはり、古人の傑作名著を読むのが一番です。
 しかしそういう学問は、一朝一夕では会得できるものではない。のみならず、突きつめていえば独り学ぶべきもの、「独」の心境で学ぶべきものである。「独」という字には、非常に複雑な深遠な意味がある。まず第一番に誰にでもわかるように多くの人に対する一人、孤独の独という意味があり、その他に「絶対」という意味がある。相対を超越するという意味の独である。「超越する」という言葉もまたみだりに使えないけれども、相対を突きつめると絶対になる。それをさらに突きつめると人間も独になる。つまり、孤独の独ではない。絶対の独なのであります。それがわかって初めて独立・独参・独行となる。剣聖・宮本武蔵は「独行道」と言うております。
 われわれもまた複雑きわまりのない現実の中にあって、時には独になりますが、独を味わうことは極めて尊いことです。『荘子』ではこれを「見独」と言い、仏教では必ずしも禅にかぎらんが、独の深理、教え、真理を説いておるのであります。


 昨日も空手道教室にこの本を持って行き、せっせと筆写いたしました。ブログを御覧の方も、お買い求めになりお読みになりませんか。
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『人としての生き方』(第30回)

 安岡先生は、学問は単に学んだだけではいけないと仰っています。

    学問というものは現実から遊離したものは駄目であって、どうしても自分の身につけて、足が地を離れぬよう     に、その学問、その思想をもって自分の性格を作り、これを自分の環境に及ぼしてゆくという実践性がなければ活学ではない。われ    われは今後本当に人間をつくり、家庭を作り、社会を作る上に役立つ生命のある思想学問を興し、これを政治経済百般に適用してゆ    かなければなない。いわゆる実学、活学をやらなければならない。

 「政治経済百般に適用してゆかなければならない」というのは、各界の指導者層をはじめ、国民各層に多大な影響を与えた安岡先生ならではのお言葉ですね。
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  古典の教え

 『孟子』は、<其れ志は、気の帥なり。気は体の充なり>と教えています。「志があれば気力も確立するものであり、そういう気力は人間の肉体に充満している」というのです。だから我々も学問を深め、重厚な思想を腹中におさめ、克己の精神をつくることが大切だと思います。

 『礼記』は、<至道ありといえども、学ばざれば其の善きを知らず>と教えています。「どんなに立派な教えとか道徳があっても、学んでみなければ、その良さはわからない」というのです。最初は意味がわからなくても学び続けて行くうちに理解できるようになってきます。やってみましょう。

 古典の教えを全員で拝誦したあとで、子供たちに何の本に書いてありましたか、などと質問しましたら、5歳児・加那子様が挙手をし、大きな声で発表してくださいました。
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