味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

言うより前にまず実行

2017-05-11 09:28:37 | ブログ
第3054号 29.05.11(木)
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子貢、君子を問う。子曰く、先ず其の言を行い、而して後之に従う。『論語』〔為政第二〕
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 <子貢が君子というものについて尋ねた。すると孔子はこう言われた、「まず言わんとすることを実行して、その後で言うことだ。」>
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 【コメント】日々の行いについて、実行することは大変大事なことであります。中にはべらべらしゃべっている人で、実行が伴わないひとがいるものです。それでは人様には信用されないと思います。
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 昨日は『論語の活学より』転載しましたが、引き続き「志気」・「志操」をご紹介致します。

 そこで、次に大切なものは「志」というものであり、志気・志操・志節と申すべきものです。これは当然気力から出てくるものでありまして、そもそも気力というものは、その人の生を実現しようとする絶対者の創造的活動でありますから、必ず自ら実現しようとする何物かを念頭に発想するわけであります。これが理想あるいは「志」であります。志は、したがって空想とは違います。空想はその人の生命すなわちその人の創造力・実行力とはつながりの薄いものでありまして、これに反して理想・志を抱くということは、生命力・気力の旺盛な所産であります。そういう場合に、気は単なる生気から進んで「志気」となり、これが現実のさまざまな矛盾抵抗にあいまして、容易に挫折したり消滅したりすることなく、一貫性・耐久性を持って「操」というものになり、「節」というものになるのであります。ここにおいて、単なる気力は進んで「志気」となり、「志操」となり、「志節」となってまいります。現実の矛盾、現実の抵抗に屈しない意味では「膽気」とも申します。事実、肝臓・膽嚢は、医学的に考察しても、活力・気力と非常に関係のあることは、今日もう常識になっております。 

 「義」と「利」

 この「志」が立つにしたがって、人間が本来具有しておる徳性・理性により、「反省」というものが行われ、何が執り行うべきことか否かの判断・決定、すなわち「義」と、単なる欲望の満足にすぎぬ「利」との弁別が立ちます。義は宜と同じ意味であり、我々の実行と離れることのできない性質のものでありますから、これを「道義」と申します。これに反して単なる欲望の満足にすぎない、往々それは志・理想の害となりやすい性質のものを、「利」と称して、これを「義と利の弁」と申しまして、古来きびしい議論のある点であります。「利」が「義」と一致するほど、本当の利でありまして、義こそ「利の本」である、利は「義の和」であるということが、賢人によって明確に教えられております。

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『人としての生き方』(第8回)

 大正十四年に、安田共済生命保険と親会社であった安田保善社との間にお家騒動が起りました。いわゆる「安田共済事件」です。北・大川両氏はこのお家騒動に介入し、一方に北氏が、そしてもう一方に大川氏が支援し、二人は対立の関係となります。
 この介入によって、北氏は多額の示談金を受け取り、また、大川氏も後に金を貰う。しかも、大學の講義には酒気を帯びて出るというような事実があった時に、先生は痛切に反省されたわけであります。このことについて次のように評価をした文がございます。


   彼らの主張するところは耳を傾けさせるものがある。しかし、こういう人々が維新や革命を開き、政権を握ったと   ころで、果たして世の中が良くなるのであろうか。世の中を変えるには、社会制度や政事制度の改革も必要だが、事に当たろうとする   国士・革命家たちが、もっと人間をつくり、それに相応しい人物となり、実力を付けなければ、運動は空回りするたけではないか。

 「国士」というのはよくおりましたけれども、生活に慎みや恥じらいが無く、酒食は常に付き物で、酒を飲んで大言壮語をするような者が多かった。
 しかし、そうした中からは本当の国づくりは出来ないということで、先生は「金雞学院」・「日本農士学校」をつくられたと伺っております。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第2回)

 この会談が行われたときの菅の東京滞在は、約六か月に及んでて、両者の会談がしばしば行われたことは、西郷が七月十日付で、在京の菅に約束を延期してくれるよう書簡をだしていることをみてもわかります。菅が西郷と会見して、「一見、果たしてこの人なり」といったのは、菅が西郷の存在を知ってから、会談のこの日までに得ていた西郷の情報、それによって菅が描いていたイメージとがピタッと一致したのではなく、対座したその瞬間に、ピタッと一致したのではないでしょうか。
 菅が西郷についてどのような情報を、いつからえていたか、それは想像するしかありませんが、島津斉彬が徳川幕府の将軍継嗣問題で暗躍したことは、諸大名にとって重大関心事であり、その手足となって活躍していた西郷の名は、当然知らされていたはずです。

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