堤と池がどう違うのかよく分からないが、私の理解では 自然に溜まったのが池で人が水を堰き
止めて造ったのが堤だと思うのだがどうだろう。(広い意味で堤防そのものを指すが)
六歳の少年である私の宗像郡加藤村池浦での記憶だが、ほとんど夏の時期の思い出でばかりである。
今から書こうとしているのも夏。
継ぎの当たった半ズボンにランニングシャツ、穴の開いたぼろズックの子供たち五、六人は寅造
さんの家を右に見て裏道を辿っていた。
寅造さんと気安く書いてはいるが、私には寅造さん本人の記憶はない。
少し進んだ左手に小さな浅い沼があったが今日の目的はも少し上の堤で、到着すると子供達は
いっせいに水に飛び込んだ。
ここは水深も結構あり すり鉢状で岸から三メートルも離れるともう足がつかなかった。
岸辺の一部には菱(ひし)という実のつく浮草があり、これをかき分けて泳いで自慢しあった。
ここでは思い出すと今でも少し落ち込むのだが、私が潜って遊んでいるとき直径が15センチ
長さ 1メートル足らずの丸太が水中の石の上に立っているのを見つけた。
揺するとグラグラと動くので面白がって何度も潜って動かしているとその丸太がポンと石から離れ
て浮き上がり、同時にゴーという音と共に水面に渦巻きができた。
瞬間子供心に してはならない事をした! という思いが走り何とかその木の杭を何とか元に戻そう
と思うが何ともならず、何度か渦巻きの落ち込む石の穴に足を引き込まれそうになった。
泣き顔で年長者の安明を呼ぶと安明が来て、何度も水に潜って木の栓は元どおりにしてくれたのだ
が、もしあの時足を穴の渦に引き込まれていたらと思うとゾットする。
言うまでもなく、その木の丸太は池浦の田んぼを潤す大事な堰というか水門の栓だったのである。
文中に寅造さんの家の少し左先に浅い沼があると書いたが、終戦直後にこの沼で六歳のわたしが
誰も経験したことのない、とんでもない経験するのだが、その話は少し置いて
明日から宗像に疎開する前の福岡県八幡市平野町11丁目の自宅から六歳の私が見た戦中戦後の
風景と経験を少し綴って見よう。