モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラだったモールス音響通信(有線・無線)の記録

幕末の電信創業へのあゆみ(その3)

2017-05-16 | モールス通信
4.幕末動乱時の私営電信架設のうごき

慶応3年12月9日、王政復古の大号令が発布され、国政は幕府から明治新政権へ移された。

このころになると、すでに電信が近代国家にとって必要欠くことのできない利器であることは、知識人のだれもがみとめるところであった。しかし、騒然とした当時の国情では電信創業への道をひらくことは、ほとんど手がつけられない状況であった。

ちなみに当時の激動ぶりをみると、慶応4年(1868)1月15日王政復古を各国に通告、3月13日駿府における西郷隆盛と勝海舟の江戸開城の談判、翌14日5箇条のご誓文発布、4月11日官軍が江戸城に入城、5月15日上野彰義隊を攻略、そして「江戸を改めて東京とせん」の発布が7月17日、慶應を明治と改元し、1世1元の制を定めたのが9月8日であった。

5.民間からの私営電信架設のうごき

慶応3年と4年に、民間人から私営の電信架設出願がだされた。
慶応3年12月、横浜州干町の貞治郎と、江戸深川の栄蔵という2人が共同計画し、江戸ー横浜間に銅線を引くというもので、町奉行所に電信架設の免許を出願した。この申請は正式に認可されたが、政権交代などのため実現しなかった。

慶応4年9月には、広瀬自懿が京都~大阪間(注)に電信架設を申請した。その費用およそ1万5000両を無利子で政府から借用したいというものであった。この計画については、はたして申請書が政府の手に渡ったかどうか記録がない。
(注)出典では、東京~大阪間となっているが、逓信事業史の記録を採用しました。


またフランス人のモンブランという人物からも、大阪~神戸間の電信架設の出願があった。この計画も、当初はあくまで私営であるが、いずれは電信施設を政府にひき渡してもよい、という条件であった。しかしその出願も実現しなかった。
(参考)このモンブランの出願が実現しなかったのは、当時の大阪藩知事五代才助が、拒絶したためであった。五代は、「通信交通に関する機関設備は国家之を施設すべく、一部外国人に特許権益を付与すべきものにあらず」という卓見により、請願書を認可しなかった。(電信事業史1巻、昭和34.10.23)による。)

時を同じくして、兵庫県判事、伊藤博文も電信架設のうごきをみせていた。伊藤博文の計画は、慶応3年12月、兵庫、大阪が開港したが事情もあり、この両市間に電信を架設しようというものあった。特に維新後、大阪遷都説が有力であった点を考えあわせ、地方官である伊藤博文として当然の計画であったが、東京が事実上の首都となることがきまったことにより、この計画も立ち消えとなった。

6.寺島宗則の電信建設建議と電信官営の決定

こうして明治元年(1868)12月、新政府は廟議(現在の閣議)において、電信官営の決議をするに至った。この廟議決定までのいきさつは、次のとおりである。

当時、横浜外国官判事兼神奈川府判事の職にあった寺島宗則(前記の松木弘安)は、東京~横浜間の通信を迅速に行うため、電信架設の必要性を痛感し、明治元年9月7日、電信開設の建議書を提出した。明治改元前日のことである。

この寺島宗則こそは、電信創業の父ともいうべき人である。彼は天保3年(1832)、薩摩国出水郷の長野家に生まれ、幼名を徳太郎といったが、後に父の兄松木宗保の養子となって、弘安と改名した。

彼は薩摩藩の政治家というよりむしろ学者であった。“科学殿様”といわれた薩摩藩主、島津斉彬の命により、安政3年(1856)から4年にかけて鹿児島城内で電信研究に参画した。1860年と61年の2回渡欧し、電信機について深い知識を積んだ。

松木弘安は、寺島宗則と改名し、明治維新とともに横浜外国官判事兼神奈川府判事になっていた。こうした要職にあって、電信の必要性を感じ、電信建設の建議書を外国官(現在の外務省)に提出した。当時の彼は38歳であった。

寺島宗則の建議書が導火線となって、ついに電信官営による建設にふみきることとなった。新政府のこの決断は、次の一文によってよく読みとれる。

電信事業は政府の専掌と為し、国家行政の一部と為して之を経理措弁するにあらざれば、将て、海陸軍用を全くするを得ず、行政治民の活動を資くるに足らず、叉且つ之を都鄙に普及し以て国利民福を増進する能わざるや瞭然なり(「電信電話事業」第1巻)

新政府は電信建設に関するいっさいを寺島宗則に一任した。

寺島は、当時、灯台建設のため新政府の招へいによって来日していたお雇い外国人築造方イギリス人、アール・ヘンリー・ブラントンに仲介を依頼し、英国政府との商談をすすめた。商談の内容は、おもにイギリスの電信技師を雇いいれることと、電信機械類の購入にあった。
この商談は成立し、スコットランドの鉄道会社で電信技師をしていたジョージ・マイルス・ギルベルト(George Miles Gilbert)が、明治2年(1869)2月、お雇い外国人電信技師第1号として、横浜港にやってきた。このギルベルトの来日と前後して、フランス製ブレゲー指字機など電信設備いっさいも届いた。

<電信創業のこの後のうごきは、前回(4月10日)の掲載記事「幕末の電信創業のあゆみ」に紹介したように、ブレゲー指字機の通信実験が成功した年の12月25日(太陽歴では明治3年1月26日)から、東京・横浜間の公衆電報の取扱い開始に続いてゆくことになった。>



◆出典; 
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)



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