モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラだったモールス音響通信(有線・無線)の記録

軍隊と通信<余禄>

2017-03-07 | 寄稿・戦時のモールス通信
◆寄稿

赤羽 弘道


出典の「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる」には、著者赤羽氏の2年間の軍隊生活の記述に1章を当てている。満20歳のとき学徒出陣として、逓信省逓信官吏練習所を4カ月で繰上げ卒業となり、金沢の東部第54部隊に入隊、のち戦地上海に渡り、1年半で終戦、国民政府軍の下で俘虜生活を送り、生きて復員するまでの2年間の若き日の軍隊体験を回顧している。これまでの「軍隊と通信(その1~3)では、その回顧の中の軍隊の通信について紹介してきた。

今回は、モールス通信を取り上げるという本ブログの主意には外れるが、出典の「軍隊時代」の章に記された「戦争を顧みて」を要約させていただき、余禄としてご紹介します。ご一読いただければ幸いです。(増田記)
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戦争の末期には、五体満足な青年はことごとく軍隊に取られた。19年10月には徴兵年齢が17歳まで引き下げられ、沖縄戦の終わった20年6月には国民義勇兵役法が公布され、15歳から40歳までの男子は国民義勇戦闘隊に編成され、本土防衛に備えた。このような状況の中で、国民は老いも若きも男女を問わず、等しく苦難に耐えた。不運にも多くの若者は命を落とした。

私の小学校の同級生は、4人が戦没した(以下、出典には、氏名、戦没地等の記載があるが省略)。私の故郷、長野県上伊奈郡川島村の渡戸地区の総戸数は70戸だった。その地区で共に通学し、山野を駆け巡った忘れがたい同窓は、昭和18年から21年1月の間に12人が戦没、中には18歳の若者もいた。

名古屋逓信講習所の普通科、高等科の同期生は10人、信官吏練習所の第2部行政科の同期生は9人が戦没した。

戦没者の中には遺骨の帰らない英霊も多かった。
補給の途絶えた戦場で、戦うに武器なく、食うに米なく飢餓と疫病に倒れた者、離島で1兵の救援もなく熾烈な砲爆撃に耐え、終に玉砕していった者、電撃を受けて輸送船の上で歯噛みをした者達。祖国のため、任務のためとはいえ、若き命を散らさざるを得なかった彼らの無念さを思う。痛恨の慟哭が聞こえる。今、私がここに旧友の最後を記したのは、せめてもの鎮魂の思いからである。決して忘れてはならないからである。

私は幸いにもこの戦争を生き延びた。戦後、お盆などで帰省したとき、村道の宮木橋を通るたびに、ここで出征兵士を送り、私もまた送られたことを思い起こす。昔は橋の袂から狐坂への道が分かれていて、そこに小さな野仏が立っていた。その橋の袂に、私は心の中に鎮魂の碑を建てた。


<<友皆帰れ>>
日の丸の小旗打ち振り
歓呼して送りしこの地
今黙して兄等を迎う
故郷は緑したたり
横川の水は澄みたり
魂魄の帰り来たりて
共にまた山野を駆けん
(赤羽弘道)


終戦時のわが国の軍隊は離島も含め約500万人、戦争の全期を通じた戦没者は212万人(千鳥ヶ淵戦没者墓苑資料、平成14年)といわれる。

原爆では広島で14万人、長崎で7万人がその年の内に死に、昭和20年3月10日の東京無差別爆撃では22万戸が焼かれ、10万人の命が奪われた。全国で106の都市が空襲で焼かれ、犠牲者は50万人に上った。沖縄戦では民間人15万人が犠牲となり、サイパンなど玉砕した島々では多数の民間人が軍と運命をともにした。失った家や財産は莫大な額に上る。

終戦時の満州における邦人がソ連から受けた惨い仕打ちと、シベリア抑留軍人(抑留者60万余、うち死亡6万)の苦難は言語に絶する。

戦争を顧みて、日清、日露の戦争から今次の大東亜戦争に至るまでの一連の戦争は、すべて侵略戦争という侵略史観に立つ人がいる一方、植民地の争奪や領土の拡大は米英ソを初め先進国がしてきたことであり、むしろ戦争はアジアを欧米の植民地から解放したというアジア解放史観にたつ人もいる。その当否の議論は暫くおくとしても、だからといて多数の日本国民を犠牲にし、近隣諸国の人々に多大の迷惑をかけたことに対する戦争責任を免れるものではない。戦勝国の復讐裁判である極東国際軍事裁判(東京裁判)は、到底承服することはできない。しかし、戦争を指導した政治家や軍人の戦争責任は十二分に追及されるべきである。一下級将校〈注)であった私にも、無知とはいえ一端の戦争責任がある。
(注)赤羽氏の軍隊での最終階級は、昭和20年8月20日付で見習士官から少尉となっている。

中国戦線にいた私は、日本軍が中国の人々を殺し、犯し、家を焼いた戦争のおぞましさを見聞きしている。相手国ばかりではなく、自国の軍隊に対しても、やらなくてよい作戦を実施し、多くの犠牲を強いた。中国における日中戦争とは一体何のためのものだったか。身近な、浙贛(せっかん)作戦〈我が聯隊でも第4中隊長以下34人戦死)や大陸打通作戦(日本軍約1万人戦死)を顧りみるとき、特にその思いを強くする。

なお、出典には、昭和12年の南京陥落時に起きたとされる南京大虐殺事件について、上海にいる間、これについての話は聞いたことはなかったと書いておられる。そのうえで、事件について、戦後いろいろな記録を読んでの個人的見解を述べておられる。<事件については、国内では、いまだ見解が分かれており、氏の見解紹介は略させていたことをお断わりします。増田>

戦後、新聞の死亡欄を見て、将軍や著名な参謀の死を知り、部下を死地に追い
やった人達が、戦後生き永らえたことに何ともいえない憤りを感じた。責任をとるのに死ねばよいというものではないが、死もまた厳粛な責任の取り方の一つである。終戦時「一死大罪を謝す」として自刃した阿南陸相や杉山元帥、大西滝治郎中将、有馬少将や宇垣大将、部下の責任を一身に負ってマヌス島の収容所に入り、出獄後は自宅の庭に謹慎の小屋を建て蟄居した今村均大将、また戦後米国で宣教師となったハワイ真珠湾攻撃隊の指揮官淵田中佐の生き様など、心打たれる人もいる。

生き残った者は、戦争の悲惨さを肝に銘じ、二度と戦争を繰り返さないよう平和のために努力を尽くさなくてはならない。祖国の土を踏んだ時、命をかけて守ろうとした祖国日本の復興のために、死んだ戦友や友人たちの分まで、渾身の努力を尽くそうと決意したのであった。 おわり

◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒<詳しくは、2016-4-15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>


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