モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラだったモールス音響通信(有線・無線)の記録

沖縄の激戦(その3)

2017-08-18 | モールス通信
沖縄の激戦(その3)

県民ニ対シ後世ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

5月29日、アメリカ軍は首里城址に侵入して来た。牛島軍司令官は摩文仁へ移動した。

6月6日早朝からアメリカ軍機の行動が活発となり、那覇沖からの艦砲射撃は激烈を加えた。小禄西側、金城、赤嶺付近では激戦が続いた。

同日夕刻、大田司令官※は「戦況切迫セリ、小官ノ報告(通報)ハ本電ヲ以テ此処ニ一先ヅ終止符ヲ打ツベキ時期ニ到達シタルモノト判断ス、御了承アリ度」と打電して戦況を報告すると共に、沖縄県民かく戦えりと、沖縄県民の献身的作戦協力について次のように電報した。※大田実沖縄方面根拠地隊司令官、海軍中将 

062016番電
左ノ電ヲ次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖繩県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク32軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖繩島ニ敵攻略ヲ開始以來陸海軍方面防衛戰鬪ニ專念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ、然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ燒却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戰ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃下□□□風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ、而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦炊事婦ハモトヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ、所詮敵來リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒芽ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ□□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駞セラレタルモノトハ思ハレズ、更ニ軍ニ於テ作戰ノ大転換アルヤ自給自足夜ノ中ニ遙ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者默々トシテ雨中ヲ移動スルアリ、之ヲ要スルニ陸海軍沖繩ニ進駐以來終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレテ御奉公ノ□□ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□コトナクシテ本戦鬪ノ末期ト沖繩島実情形□□□一木一草焦土ト化セン、糧食6月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ、沖繩県民斯ク戰ヘリ、県民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ    (注□□=判読不能の箇所)



牛島司令官の決別電報

6月18日、日本軍の組織的抵抗は不能に陥っていた。
第32軍牛島司令官は18日夕刻、決別電報を参謀次長及び第10軍司令官宛に発電した。
球参電635号(6月18日1820発電)
大命ヲ拝シ挙軍醜敵撃滅ノ一念ニ徹シ勇戦敢闘茲ニ3箇月全軍将兵鬼神ノ奮闘努力ニモ拘ラス陸海空ヲ圧スル敵ノ物量制シ難ク戦局正ニ最後ノ関頭ニ直面セリ

麾下部隊本島進駐以来現地同胞ノ献身的協力ノ下ニ鋭意作戦準備に邁進来リ、敵ヲ邀フルニ方ツテハ帝国陸海航空部隊ト相呼応シ将兵等シク皇土沖縄防衛ノ完璧ヲキセルシモ満(注・牛島司令官の名)不敏不徳の致ストコロ事志ト違ヒ今ヤ沖縄本島ヲ敵手ニ委セントシ負荷ノ重任ヲ継続スルアタワス、上 陛下ニ対シ奉リ下国民ニ対シ真ニ申訳ナシ、茲ニ残存手兵ヲ率い最後ノ一戦ヲ展開シ一死以テ御詫ヒ申上クル次第ナルモ唯々重任ヲ果シ得サリシヲ思ヒ長恨千歳ニ尽ルナシ

最後ノ決闘ニ当リ既ニ散華セル麾下数万ノ英霊ト共ニ皇室ノ弥栄ト皇国ノ必勝ヲ衷心ヨリ祈念シツツ全員或イハ護国ノ鬼ト化シテ敵ノ我カ本土来寇ヲ破砕シ神風トナリテ天翔ケリ必勝戦ニ馳せ参スルノ所存ナリ、戦雲碧々タル洋上尚小官統率下ノ離島各隊アリ何卒宜敷ク御指導賜リ度切ニ御願ヒ申上ク、茲に平素の御懇情、御指導並ビニ絶大ナル作戦協力ニ任セラレシ各上司並ニ各兵団ニ対シ深甚ナル謝意ヲ表シ遥ニ微衷ヲ披瀝シ以テ決別ノ辞トス

矢弾尽キ天地染メテ散ルトテモ
  魂還リ魂還リ皇国護ラン
秋ヲモ待タテ枯レ行ク青草ハ
  帰ル御国ノ春ニ甦ラナム

沖縄戦最後の無線

熊本逓信講習所出身で電信第36聯隊無線通信隊に所属していた合志剛は、「大本営あて沖縄島最後の無線」(『電通』第7号所収)の中で、その状況を次のように書いている。
6月21日、沖縄戦の最後の時が来たことが分かったのは、本土と通信連絡がとれているのは我々が所属する鹿児島系(班長は坂本曹長、熊本県玉名郡出身)だけで、他の通信班は歩兵部隊に転属を命ぜられて出動してしまったからである。

夕方6時に暗号班長がこれが最後の電報だからよろしく頼みますと言って、電報12通と暗号書3冊を坂本班長に手渡した。班長は最後の電報を見ながら、送信所の班長を受信所にすぐ来るように連絡をとってくれと僕に命じた。すぐその旨送信所に伝えると、しばらくしてやって来て、交信時間は何時から始めるかということになった。敵は我々の天然の防空壕から5百米の地点に陣地を構築して、追撃砲で攻撃していることが偵察に行った送信所の兵隊の報告で判明した。

そこで日がとっぷり暮れてからひそかに鹿児島通信所を呼び出して、短時間で送信を完了することが最善な方法であるから、そのようにしようと決定した。夜9時から鹿児島通信所と交信するため、摩文仁海岸の中断に掘割になっている場所に設置された発電機と送信機の所に行くと、機関兵が電鍵を指しながらここで送信を開始してくださいと、小さな声でささやくようにうながし、豆電球にスイッチを入れ明るくしてくれた。

早速「最後の電報」を見ると、宛先は、1陸軍大臣 2海軍大臣 3陸軍参謀長 4海軍軍令部総長 5西武方面軍令官 6東京陸軍士官学校長 7台湾方面軍司令官 8第5航空艦隊司令長官 9知覧飛行隊長 10朝鮮方面軍司令官 11新田原飛行隊長 12第6航空軍司令官となっている。

早速電報送信の為、鹿児島通信所を暗号「ヤヨナ」「ヤヨナ」で2分間呼び続け「トウコ(当方受信機故障)「オク(送り込み通信を行う)」を繰り返して知らせ、それより送信を開始したが、電波を出しているのが敵にキャッチされたのか、敵陣から発射した迫撃砲弾が送信所の上空をものすごいうなりをたてて飛び交う音に、今夜はこのまま戦死するかもしれないと覚悟を決めながら、電報を「サラ(1回送ってから再送信すること)」の方法で送り完全を期した。

送信を終えて時計を見ると、夜の10時3分を回った時刻であった。電報の内容は沖縄作戦で「特攻機」による攻撃を3カ月にわたり続行してもらった感謝の電報であった。


6月23日払暁、牛島司令官は太平洋に面する洞窟の入り口で長参謀長と共に割腹した。介錯は阿蘇郡出身の副官坂口勝大尉がつとめた。かくて沖縄は全島をアメリカ軍に占領され、沖縄戦は終わった。
この戦闘で日本軍の死者11万人、捕虜8000人弱、島民約10万人が生命を失った。そのなかには最後まで勇戦した鉄血勤皇隊の少年や、女子学生等で編成された「ひめゆり部隊」をふくむ老若男女があった。アメリカ軍の戦死者は7600人、戦傷者58000人であった。(おわり)

◆出典
日本電信情報史 極秘電報に見る戦争と平和 大塚虎之助著/増田民男監修
熊本出版文化会館発行(2002年5月20日)




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