ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

普通という圧力

2017年07月01日 | エッセイ-世間
第2章個人の構造(個人は自立すべきか)
2節日本の個人
10普通という圧力
 われわれは「普通はそうする」とか「普通の人はこうする」と言われると、つい抵抗できずに従ってしまうことが多い。わが家でも「普通は・・・」が女房殿の口癖になっている。
 何か家電製品を買おうと量販店に行くと、テレビでも洗濯機でもあまりに種類が多くて、どれを買ったらいいか選択に迷う。そういう買い手の心理を見越してか、「当店売れ筋ランキング」というようなビラが売り場に貼ってある。商品選定の参考にしてもらうというよりは、「みなさんこれを買っていますよ」と客の普通志向に訴えて圧力をかけ、「よく売れているのなら、それを買えば無難かな」と思わせる店頭戦術だろう。
 この売れ筋ランキング戦術はワインや日本酒を売る店でもやっている。買う側は、どれが自分の好みに合うか見つかるまでいろいろ試してみようなどとは考えず、万人が好むものを飲もうと普通志向に従順である。
 会社に勤務していたころは、よく会社の人と飲みに行った。飲んだ後はカラオケというのがお定まりのコースである。でも、私はたいてい二次会を失礼して先に帰った。「どうして行かないんですか」と聞かれることが多かったが、「カラオケは嫌いです」と本音を言うわけにも行かず、「歌が下手なもので」とかなんとかごまかしていた。本当は他人の下手な歌を聞くのが苦痛だったのである。どうして行かないのかと聞く人は、カラオケが嫌いな人がいるなんて夢にも思わないのだろう。
 カラオケは私が子供のころにはなかった。テープレコーダーを使うカラオケが開発されてから、あっという間に世の中に広まり、カラオケは普通の娯楽になった。日本の社会では、これから何が普通になるかを先読みする人がよく売れる商品を開発する。
 普通というのは、どのくらいの割合を占めているのだろうか。どんな集団も2・6・2、つまり優れた人2割、普通の人6割、劣る人2割の構成になっているという説がある。私の会社勤務の経験からいうと、組織の中で働く社員の集団はもっと普通の人の割合がふくらんで、2・6・2よりも1・8・1に近いような気がする。
 組織運営の一つの要点は、この大多数を占める普通の人々をいかに動機づけるかということにあった。幸か不幸か、すぐれ者は「出る杭は打たれる」という組織風土のなかでは、並みの人向けのマネジメントに文句を言わない。
 普通志向はどんどん蔓延していき、世の中の圧倒的多数が普通人になりつつある。だが、普通が大多数になると、私のような「変わり者」は困ることが多い。たとえば、私は西洋クラシック音楽を好んで聞くが、クラシック好きは少数派なので、FM放送やテレビのクラシック番組は時間が少なく、近所のCDショップでは品揃えが貧弱である。
 しかも、クラシックのなかにも普通の曲とそれから外れる曲がある。ベートーベンの交響曲のような人気のある曲は、各種の演奏がCDになっていて選択の余地があるが、私のように室内楽を愛好する者は少数派に属し、棚に並ぶCDはずっと少ない。
 まあ、それくらいなら我慢できるけれども、このごろの小中学生のように普通にしていないといじめを食らうとなると、捨てておけない。「普通」が世間を渡る通行証となり、自分が普通であることを証明するために、普通でないものを排除するようになっている。子供の世界は大人の世界を映す鏡である。
 普通でないものを排除していく日本社会の病理現象には、手当が必要である。手始めに「自分は普通だ」と思っている人は、他人に普通を押しつけないようにしよう。来客の好みも確かめないでコーヒーを出す、というようなことをしていないだろうか。
 蛇足だが、ロンドンに滞在していたとき、友人の紹介で知り合い親しくなったイギリス人の大学教授に、何の問題だったかは忘れたけれど「こんなときイギリス人はどう考えるのでしょうか」と聞いたことがある。その先生はちょっと困った顔でこう答えた。「イギリス人といっても、上中下の階層があり、それぞれの階層の中にもいろいろな考え方の人がいるので、簡単には言えませんね。せめて中産階級はどう考えるかというように聞いてくれれば、なんとか答えようがありますけど」。

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