ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

礼を言わない親

2016年10月01日 | エッセイー個人
第2章 個人の構造(個人は自立すべきか) 

1節 欧米の個人 

2礼を言わない親
 もう30年以上前のことになるが、ニューヨークから日米交換留学で来た男子高校生を、わが家で夏休みの約2カ月間あずかったことがある。生活の世話をする妻は、かたことの英語しかできないので、随分苦労したけれど、M君というその高校生は、近代化された都会の中に伝統的な文化が混在する日本を大いに楽しみ、おまけに地震まで初体験して、喜んで帰っていった。
 ところが、帰国後彼の親から礼状も電話もこない。「おかしいなあ」と首を傾げていると、同じ交換留学でアメリカのミシガン州の高校に1年間在学した経験のある、私の長男がこう言った。「そういう場合アメリカでは、親はふつう礼を言わないよ。世話になったのは子供なのだから、子供が礼を言うべきだ、と思っているみたいだね」。それを聞いて、「アメリカの個人主義はそこまで徹底しているのか」と感心もし、「冷たい社会だなあ」と違和感も覚えた。
 実はM君には、ニューヨークで仲良くなったE君という日本人の友達がいた。E君は、父親が高名な物理学者で、親の仕事の関係で当時ニューヨーク郊外に住んでいたのだが、M君が来た夏には、一人で日本の祖母のところに来ていた。そのE君がわが家にM君を訪ねてやって来て、一泊していったことがある。一泊することは、あらかじめ母親に言ってあったとみえて、ニューヨークのお母さんから、「突然お世話になりますが、どうぞよろしくお願いします」とわが家に電話が入った。
 E君は長年のアメリカ暮らしで日本語がおぼつかなかったけれども、礼ぐらいはきちんと言えた。それでも、親として息子が世話になる礼を言わなければ気が済まない。それが日本の親というものだろう。
 欧米の親は礼を言わないだけではない。子供が他人に迷惑をかけたときにも、原則として本人に謝らせる。以下は高橋敷氏がペルーの大学で宇宙科学を講義していたころの体験談である。

 フランス人ラナーの息子が、あやまって私の家のガラスに石をぶつけたときだって、ラナー夫妻は詫びにはこなかった。「パパとママが、お前が悪いから叱られてきなさいといったの」と、うなだれて、弁償のガラス戸を1枚かかえ、おずおずと私宅を訪れた小学1年生の子供のいじらしさに、叱るのを忘れて頭を撫で、菓子包みを持って帰らせたところが、しばらくするとラナー氏が苦情を申しこんできた。(中略)
 「プロフェサー、無茶をしてくれたら困る。あんたは叱られに行った息子を撫でたそうじゃないか。息子の将来をどうしてくれるんだい。もう一度行かせるから、すまないが友人のよしみで叱りつけてほしい。お菓子は返すから、他の理由で別の機会にやってほしい」と。(『みにくい日本人』原書房)

 欧米人は子供を、社会に出たとき個人として一人立ちして生きていけるようにしつける。子供といえども自分の行動に責任を持ち、礼を言うのも、ほめられるのも叱られるのも自分自身である、と教育するのである。
 今見たのは、欧米社会における親子関係であったが、夫婦の場合でも、お互いは必ずしも一心同体ではなく、時として他人同士のような一面を覗かせる。ここに紹介するのは、私がアメリカ滞在中に聞いた話である。
 ある主婦が夫の運転する車に同乗していて、夫の過失で怪我をし腕に後遺症が残った。妻は弁護士や保険会社を通して、夫に賠償金を請求したが、なかなか話がつかない。とうとう裁判所で結論を出すことになった。痛む腕をかばうように妻を自分の車に乗せて、被告と原告の立場で通う夫の姿は、日本の社会では考えられない光景であったという。
 これは極端な事例かもしれないが、アメリカでは夫婦の間でも利害が相反する場合は、愛情とは別のものとして個人の権利が主張されることを物語っている。
 一般に欧米人は、親子も夫婦もそれぞれが独立した人格として、相互に向きあっている。成人は言うまでもなく子供でも、親や他人に依存しない生き方が求められる。「あなたのお子さんは自立していますね」は充分なほめ言葉である。
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