ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

自立した個人と責任

2016年10月11日 | エッセイー個人
第2章 個人の構造(個人は自立すべきか)

1節 欧米の個人 

3自立した個人と責任
 欧米人の考え方の根底には、「個人は、認識、意欲、行動の主体としての自我が独立した存在であり、それぞれに異なった利害、意見、感情を持っていて、潜在的には対立している」という人間観がある。昔から侵略、被侵略が絶え間なく続き、言語、宗教、習慣の異なる人種、民族が隣り合い、混じり合って生活してきた社会で、こうした基本思想が生まれるのは自然であろう。
 そういう社会で個人が共存して暮らしていくためには、ルールや契約によってお互いの行動を律することが重要になる。欧米が契約社会だと言われるのはそのためである。商取引なら、当事者は一つひとつ問題を細かく検討し、自分に有利な条件を主張しあい、妥協点を見いだして相互に納得したうえで契約を交わす。
 契約書はあらゆる場合を想定して作り上げるため、膨大なものになる。細かい取り決めをしないでおいて、何か問題が起こったら相手の善意に期待して解決をはかるようなことは、絶対にしない。そんなことをしたら、いつ相手のいいように丸め込まれるか分からない。
 日本では、契約書の最後に「この契約に定めのない事態が生じたときは、両者誠意をもって処理する」という条項がつけ加えられることがある。欧米人は、こういう誠意条項の意味を認めない。誠意は大切なことではある。しかし、それは何によって保証されるのか。誠意がないとなったとき、どんな責任が発生するのか。それらを具体的に決めてない条項は無意味である、と考えるのである。
 約束事をすべて紙に書いて確認しなければ安心できないという契約社会は、見方を変えれば、人間の善意を期待しない社会であり、腹の底には他人を信用しない人間不信がひそんでいる。
 個人が会社で働く場合も、仕事の内容や権利、義務を明確にして雇用契約を取り交わす。職業上の機能に関して何が義務で何が権利か、何ができて何ができないか、それを事細かに取り決めて契約しておかなければ、労使双方が安心できない。
 個々の従業員の役割は明文化されており、決められた仕事はきちんと果たす義務があるが、それ以外の仕事は契約外のことだからする必要がない。むしろ、自分の守備範囲外のことに手を出すと、同僚の仕事を取るな、と苦情を言われたりする。
 もっとも、これは厳しい責任意識の裏返しではある。契約に定めた仕事が、怠惰、失敗などによって完遂されなかったときは、個人の責任が追求される。他人の仕事を手伝って、もししくじったら誰が責任をとるのかと考えれば、手伝ってもらう方もうかつには頼めない。欧米人の責任は基本的に個人責任で、日本人のような連帯責任の意識は薄い。
 私が勤務していた会社は世界各地に生産、販売、技術の拠点を持っていた。そのうちの一つ、アメリカのサンディエゴ工場へ行ったとき、製造ラインを見てまわったら、床に部品が落ちたままになっている。なぜ誰も拾わないのかと聞いたら、それは掃除人の仕事だ、という返事で唖然とした。
 落ちているのはゴミではない、れっきとした部品だ。拾わなければ、担当者が部品の員数が合わなくて困るだろうに。聞けば、部品の数が合わないのは日常茶飯事で、部品はいつも生産予定数よりも多めに製造ラインへ供給するのだそうだ。少々部品数に過不足があっても気にしないという、おおらかさもさることながら、自分の仕事として決められたこと以外には、一切手を出さないということがここまで徹底しているのか、と驚きを通り越して腹立たしさを覚えた。
 別の製造ラインで、たまたま前工程でトラブルが発生したために手空きになった女子従業員のところを通った。彼女は退屈そうに雑誌を読んでいた。日本だったら部品や工具の整理をしたり、他人の手伝いをするのが普通だ。事務所でも同じことで、同僚が山ほど仕事を抱えていようが手伝わない。自分の仕事が片づけば、さっさと帰ってしまう。
 欧米は、どこへ行っても個人責任が徹底している。イギリスのウエールズにある工場へ出張したとき、技術者からこんな話を聞いた。「何か技術的な問題が起きた場合、日本なら関係者が集まって、みなで原因や対策を考えますが、イギリス人はまず誰の責任事項かを確定し、責任のある人に原因究明も対策もまかせ、他の人は手を引いてしまいます。赴任したばかりのころは、イギリス人のやり方に腹を立てましたが、彼らは私がなぜ不機嫌なのか理解できなかったようです。仕方なく彼らに合わせ、イギリス流でいくことにしたのですが、慣れてみると、これはこれで悪くないという気がします」
 欧米人の徹底した個人責任は反面で責任逃れにつながっている。いったん契約を交わせば、それをきちんと守ることが要請されるのは当然のことだが、契約を守れそうにないとき、彼らは「実はこれこれの事情があった。自分が悪いのではない」と自分を正当化する理屈を並べたてる。
 欧米人はどうでもいいことではすぐ「失礼」と言うが、自分に責任がふりかかってきそうな大事な場面ではめったに謝らない。仕事上誤りをして上司から指摘されても、あれこれ言い訳をして、なかなか間違いを認めようとしない。自分を弁護するためなら、詭弁、強弁を臆面もなく動員する。自分の誤りであることを肯定すれば、自分の失点になり、それが大きい場合は解雇されることもあるとなれば、簡単に自分の非を認めないのは当たり前かもしれない。
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