湯ノ山街道は現在の荒神から投松峠までの広い道ではありません。
今では、ほとんどの所で湯ノ山街道の姿を探すのは難しくなっています。
湯ノ山街道を再現しながらの「街道をゆく」になります。旧湯ノ山街道から見る風景・歴史を尋ねてみます。
さっそく、志方城に出かけましょう。
志方城(現:志方町観音寺)は湯ノ山街道にそっていました。
前号で紹介した、道標の場所から志方城のあった観音寺までは、近くですが圃場整備等で元の道は分からなくなっています。
志方城大変
三木別所氏に味方した志方城方と織田・信長方の戦いが始まりました。
以前に、「志方城の戦いはなかった」と、いう文を書いたことがありあります。
さっそく、地元の人から抗議がありました。その通りで「志方城の戦い」の詳細はわかりませんが、確かに志方城の戦いは、事実としてはあったようです。
訂正しますが、志方城の戦いは結果(敗北)の見えた絶望的な戦いでした
戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。
まず、野口の城が落城し、ついで、神吉城が信長方の大軍におしつぶされました。
その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。この時(天正6年・8月)の詳細はわかりません。
志方城主・櫛橋伊則(くしはしこれのり)は、戦わずして志方城は、信長方の軍門にくだったという説があります。
また、志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説もあります。
志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれました。
この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はありません。
志方城の戦いでも援軍は期待できませんでした。負け戦は確実の状況でした。
唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦いになります。
城主・伊則の娘は、信長方の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこことして、説得はあったと思えます。
写真は、志方城跡の観音寺。城であった痕跡はほとんどないのですが、観音寺の山門脇の石垣の前に内堀跡がわずかに残っています。
*写真上:志方城跡に建つ観音寺