ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(25):湯ノ山街道をゆく(2)・志方城の戦い

2011-06-24 10:12:35 |  ・加古川市志方全般

   湯ノ山街道からの風景・歴史を!

Shikata3_011_2湯の山街道を歩いてみます。

湯ノ山街道は現在の荒神から投松峠までの広い道ではありません。

今では、ほとんどの所で湯ノ山街道の姿を探すのは難しくなっています。

湯ノ山街道を再現しながらの「街道をゆく」になります。旧湯ノ山街道から見る風景・歴史を尋ねてみます。

さっそく、志方城に出かけましょう。

 

 志方城(現:志方町観音寺)は湯ノ山街道にそっていました。

 前号で紹介した、道標の場所から志方城のあった観音寺までは、近くですが圃場整備等で元の道は分からなくなっています。

     

   志方城大変

B39275c5  この志方城で、天正6年(15788月、大事件が発生しました。

 三木別所氏に味方した志方城方と織田・信長方の戦いが始まりました。

以前に、「志方城の戦いはなかった」と、いう文を書いたことがありあります。

 さっそく、地元の人から抗議がありました。その通りで「志方城の戦い」の詳細はわかりませんが、確かに志方城の戦いは、事実としてはあったようです。

 訂正しますが、志方城の戦いは結果(敗北)の見えた絶望的な戦いでした

戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。

まず、野口の城が落城し、ついで、神吉城が信長方の大軍におしつぶされました。

その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。この時(天正6年・8月)の詳細はわかりません。

志方城主・櫛橋伊則(くしはしこれのり)は、戦わずして志方城は、信長方の軍門にくだったという説があります。

また、志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説もあります。

志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれました。

この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はありません。

志方城の戦いでも援軍は期待できませんでした。負け戦は確実の状況でした。

唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦いになります。

城主・伊則の娘は、信長方の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこことして、説得はあったと思えます。

写真は、志方城跡の観音寺。城であった痕跡はほとんどないのですが、観音寺の山門脇の石垣の前に内堀跡がわずかに残っています。

*写真上:志方城跡に建つ観音寺

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