ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃部達吉と天皇機関説(13)  余話として、近藤亀蔵

2017-05-18 09:49:05 | 美濃部達吉と天皇機関説

        余話として、近藤亀蔵

 近藤亀蔵については、『故郷燃える()』(神戸新聞社)におもしろい記述があるので、余話として紹介させていただきます。

 ・・・・「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門(かど)通れば後光さす」と、当時の俗謡に歌われている。

 何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大はやりしたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産四十万で、西は播磨の近藤、六十万両であり、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられた。

 寛政元年(1789)、わずか九歳で先代の跡を継いだ亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走した。・・・・

 特に、回漕業(海運業)をもっとも手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をおいて、全国に船を派遣し、米や雑貨の売買で大もうけをした。

 もろん、「当国第一の銀貸し(銀行)」でもあった。

 幕府に相当な献金もしたのだろう、亀蔵という名も大坂城代からもらった。

 長蔵というのが元の名である。

 地元の小野藩、一柳(ひとつやなぎ)家の御用金もうけたまわって、とっくに苗字帯刀ご免だった。・・・・

 小野市の黍田と対岸をつなぐ万歳橋が左岸(東岸)に突き当たるところに豪商・近藤亀蔵の屋敷があった。

 天保の川筋一揆で一揆衆につぶされた。

  (一揆の)のち、勤王・佐幕の動乱期に、近藤家は亀蔵から文蔵の代になっていたが、倒幕派の急先鋒、長州藩と深く結びつき、その志士たちの活動をひそかに援助する。

 長州藩との関係は、近藤家が兵庫~下関間の回漕業(海運業)を経営していたことから生じた。

 元治元年(1864)と慶応元年(1865)の二度にわたり、幕府が長州藩を封鎖したときには、その物資輸送を助けており、長州藩士、伊藤俊介(博文)なども長く近藤文蔵の本宅(市場町)に潜伏していたことがあるようだ。

 志士たちは、近藤のような豪商のルートをたどって、地下活動をした。

 それはさておき、安政三年(1865)76歳で死ぬまで、この近藤亀蔵にとって最大の災厄が、天保四年九月の一揆襲撃だった。・・・・(no3588)

 *『故郷燃える()』(神戸新聞社)参照

 *写真:近藤邸跡に残る当時の倉庫(万才橋袂にある)

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