ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

山片蟠桃物語(10) コメは貴穀物にあらず、銭である

2016-12-10 08:05:36 | 山片蟠桃物語

    コメは貴穀物にあらず、銭である

 このとき、升屋の金庫にはわずか60貫の銀しかのこされていなかったといいます。

 その後、升屋の芽が出るまで、11年苦闘でした。

 11年後の天明三年(1783)、仙台藩との信頼関係が確立し、藩のたのみで一万五千両を貸し、以後、先に述べたように藩財政のたてなおしの相談をうけるまでになりました。

 かれは、コメを根底からカネとして見ることによって仙台藩の財政のむだをのぞきました。

つまり、コメから“貴穀"という迷信をとりのけた点、蟠桃の思想性が経済に生かされています。

 やったのは、農民の年貢をとりたてたあとの“残米"を藩が現金で買いとるという方法でした。

 つまり、“残米"のぶんにかぎって、藩と農民は商取引の関係になりました。

 藩は買いあげた残米を、日本最大の消費地である江戸へまわしました。

 藩が、米屋になったのです。

このあたらしい機構のおかげで、以後、江戸市民のたべる米のほとんどは仙台米になりました。

 買米と、それを江戸へはこぶ米のためには、仙台と、港の銚子と受け手の江戸に役所を新設せねばなりません。

その役所の設立・維持と人件費は升屋が肩代りすることにし、その費用として、蟠桃は“サシ"というものを申し出てゆるされました。

 ふつう米俵の検査をするとき、竹ベラで俵を刺して米の品質をみます。一俵に一合ほどの米がのこります。

 その残った米を升屋がもらうことで、三ヵ所の役所の経費を賄ったのです。

 これが意外に大きく、支出をさしひいても年に数千両が升屋のふところに入りました。

 藩も、大いにうるおいました。農民から買米する場合、蟠桃の考案により、藩は“米札"という幣でもって支払いました。

 藩は江戸で売った米をもって現金を得、その現金を、藩は両替商に貸して、利息を得ます。

その利息は、藩にとって莫大なもので、これよって仙台藩は財政をたてなおしました。

 ゼニ経済になることによって、仙台藩は、すっきりした財政をもつことができたのです。

 仙台藩の財政たてなおしの成功によって升屋(蟠桃)の評判が高くなりました。

 当時、仙台藩は、蟠桃を一藩の家老のように接遇したといいます。(no3418)

 *写真:田沼時代の貨幣

 

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