ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃部達吉と天皇機関説(15) 余話・河合耆三郎(かわいきさぶろう)  

2017-05-20 08:08:40 | 美濃部達吉と天皇機関説

    余話・河合耆三郎     

 

 文久3年(1863)の夏のある日、一人の若者の姿が高砂の町から消えました。

 彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として、堀川岸で活躍していました。

 その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消したのです。

 やがて、京の新撰組に入り、サムライになったことが、風の便りに聞こえてきました。

 彼の名は、河合耆三郎(河合義一の父・義一郎の兄)、武士として活躍したいと常々考えていました。

 新撰組のできたことを知り、いてもたってもいられなく、ついに高砂の町を飛び出したのです。

 彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)の仕事をまかされました。

 新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものでした。

 慶応2年(1866)2月2日の朝のことです。

 前夜、タンスの中に入れていた50両の大金が消えていました。

 タンスに近づくことのできたのは、新撰組の幹部だけでした。

 これが表面に出れば深刻な内輪もめになります。

 彼は、この50両の穴埋めのために国もと(高砂)へ早飛脚をだしました。

 折り悪く、父親は商用で外に出ていました。

 悪いことは重なります。この間に、新撰組で50両が必要になりました。

 「耆三郎がその金を盗んだ・・」と疑がわれました。

 今となっては誰も信用してくれません。2月12日、耆三郎の打ち首が決まりました。

 刑は、新撰組の道場横で行われました。時間は、午後8時をまわっていました。

 小雨交じりの寒い夜であったといいます。

 処刑の3日後、彼が待ちにまった50両がとどきました。

 この金は、近藤勇が遊女を身請けするための金であったらしい・・・

 耆三郎については、下母沢寛の小説『新撰組三部作・新撰組物語』(中央公論社・中公文庫)に詳しく書かれていますが、たぶんにフィクションが含まれているようです。でも、紹介しておきたい話題です。(no3591)

 *写真:江戸時代の倉庫群の面影をとどめる菅野邸付近(南堀川の界隈)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« コーヒーブレイク 将棋・加... | トップ | 美濃部達吉と天皇機関説(1... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。