ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

散歩をしましょう(14) オマーン国王夫人

2017-09-25 09:18:24 | 散歩をしましょう

 最近、散歩に凝っており、散歩中に見つけたこと(考えたことを)を書いていますが、2010年4月1日のブログ、「オマーン国王夫人・稲美町に眠る」の記事になぜかアクセスが多くなっています。

 そのため、今日は、カテゴリー「散歩をしましょう」の続きとして、再度この話題を掲載しておきます。

    オマーン国王夫人

 県立東播磨高校のすぐ東の高堀を調べました。横の墓地の「オマーン国王夫人」の墓碑にお参りしましょう。

 *墓碑の国名は「オーマン」となっています。

     オマーンの歴史

 オマーンはブ・サイド家が支配するイスラム教の国で、アラビア半島の東南端の一角に位置し、面積は日本の4分の3ほどの小さい国です。

 ホルムズ海峡に続くオマーン湾やアラビア海に面したオマーンは、古くからインド・アフリカ東海岸諸国との貿易の要衝でした。

 オマーンは、イスラム教を中心としていますが、スンニ派やシーア派でもなくイバーディ派と呼ばれる宗教が国民の多数を占めてします。

 イバーディ派は、指導者を世襲としていません。

 そのことはよいことなのですが、新しい指導者の出現には、しばしば混乱と分裂を招きました。

 オマーンは、衰え15071649年までポルトガルに支配されました。

 オマーンが、再度統一を回復したのは1749年のアハマド・ビン・サイードによってでした。

 しかし、サイード国王の死後、オマーンは再び衰え、国王のタイムールは息子のサイードに追放され(1932)1965年にインドのボンベイで客死するまで30年余をアジア各国で過ごしています。

 タイムールは一時、日本にも滞在し、そのとき日本女性との間に女の子をもうけます。ブサイマ王女です。

 その後、父親を追放して第7代国王となったサイード(在位193270)は、イギリスとの通商条約を結び、イギリスを後ろ盾に父・タイムール旧勢力と対峙しました。

 その後も争いは絶えませんでした。

 1970年、サイード国王の息子のカブースは父を退位させ第8代国王に即位しました。

 なお、父親のサイードは追放された2年後ロンドンで亡くなっています。

    オマーン国王夫人・稲美町の墓地に眠る

 息子に追放されたタイムール国王は一時、日本にも滞在し、その時日本女性との間にブサイマ女王を出産します。

 この日本女性は稲美町の方で、墓碑(写真)が県立東播磨高等学校前の墓地にあります。

 数年前、ブサイマ女王が母の墓参にこられたということを聞きました。

 話してくださった方は亡くなられ、当時の詳細はわかりません。

 さらに、オマーン国王について知りたいのですが、詳細をお知りの方はお知らせください。

   <墓碑>

  南面  昭和拾四年拾壱月拾日卒

      前オーマン国王夫人 清子アルサイド

                享年二十三歳

  東面  昭和拾五年五月

     タイムルFファイサム・アルサイド建之 (no3730)

 *地図:オマーンを示す地図、写真:オマーン国王の墓碑

 ◇きのう(9/24)の散歩(11.758歩)

ジャンル:
ウェブログ
コメント (1)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 散歩をしましょう(13) ... | トップ | 散歩をしましょう(15) ... »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (藤本 保夫)
2017-10-13 23:39:16
私はオマーンに計5年間出張していました。タイムール元国王とその日本人奥さんについて書かれた本も持っていますが、今行方不明です。娘さんの名前はブサイナ姫と記憶しています。独身のはずです。オマーン人でもこの話はあまり知りませんでした。皇太子妃の雅子さんがオマーンを訪問した時に歓迎の席に同席していたらしいです。オマーン人は大変親日的であり、楽しく仕事ができました。日本では見られないダイナミックな風景が魅力的なおとぎの国のような印象があります。

コメントを投稿