昭和43年・神戸製鋼所操業
加古川市が神戸製鋼所の有力候補地として白羽の矢がたったのは、昭和34年のころでした。
そして、建設計画が示されました。
これに対して加古川市議会は積極的に動きました。
昭和35年1月の市議会は、「・・・目標が神戸製鋼所と決まった以上・・・(中略)・・・神戸製鋼所誘致に本市の運命を賭けるべきであろうと考えるのであります。
地元各位のご協力はもちろん、全市かって一丸となって、これが目標完遂のために、当議会においても、強力な神戸製鋼所誘致特別委員会の設置を提案する次第であります」
まるで、戦時中の演説かと見まがうほどの雰囲気の中で、全会一致で特別委員会設置が決まりました。
この間、市民の声はあまり聞こえていません。
そして、昭和43年(1968)厚板工場の操業を手始めとして、その後着実に銑鉄一貫工場体制による新鋭製鉄所は完成しました。
加古川製鉄所は、環境保全を最優先する基本理念を持って進められたはずであったが「神戸製鋼所第三高炉建設をめぐって推進派と反対派の市民多数が傍聴に押しかけ乱闘(1974・12)」や「ばい煙公害に悩まされている農民が、第三高炉反対を訴えて市役所に直訴(1975・5)」といったできごとが起きました。
その後、大気汚染防止法など基準値超過の際、記録の中止・データーの改ざんなどを行い、大きな社会問題ともなりました。(no3623)
*『加古川市史(第三巻)』参照
*写真:神戸製鋼所
◇昨日の散歩(13.766)