ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃部達吉と天皇機関説(10) 美濃部達吉の生地 

2017-05-16 05:43:18 | 美濃部達吉と天皇機関説

    美濃部達吉の生地 

 達吉は父秀芳・母悦の次男として1873年(明治6)高砂町材木町に生まれました。

 達吉の生家は、平成の初期まで材木町の角地に昔の姿をとどめていましたが、今は倉庫となり達吉の成果の痕跡は何も残っていません。

 達吉が幼少期過ごした明治初期の高砂は、江戸期の名残りを十分とどめていました。

 明治4年の廃藩置県、それに続いて地租改正により従来の年貢米がなくなり、産米はすべて米穀仲買人に買取られました。

 年貢米だけを取り扱っていた問屋は没落したが、かわって米穀商人が船をもつようになりました。

 明治に入っても堀川界隈は盛況を呈していました。

 達吉の幼少期においては、高砂川上流の姫路藩の年貢米と余剰米を収納していた百間蔵(ひゃっけんぐら)は、年貢米はなくなり機能していなかったのですが、明治9年の「高砂町耕地図」によると、まだ建屋は存在していました。

 南堀川界隈には問屋が並び、問屋は米穀のほか薪炭、肥料、砂糖、塩、海産物などを扱っており高瀬舟も盛況でした。

 米穀は、おもに大坂へも運ばれていました。

 そんな南堀川の西端に、間屋にはさまれて医を業としていた美濃部家がありました。(no3585

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房より)

 *写真:美濃部達吉の生家(高砂町材木町)

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