ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃部達吉と天皇機関説(12) 小野中学校へ進学・市場(いちば)近藤家の世話になる

2017-05-18 06:21:21 | 美濃部達吉と天皇機関説

  高砂小学校・小野中学校(現在の小野高校)

        そして、東京帝大法科へ

 達吉は、幼少より神童と呼ばれ、高砂の小学校では6年の過程を4年ですませました。

     市場(いちば)近藤家の世話になる

 中学校は、公立小野中学校(現在の小野高校)に進学しましたが、母(悦)の実家(小野の古川村)から通学するには遠すぎるため、小野の市場村(いちばむら)の豪商近藤家に預けられ、その援助で通学したといわれています。

 総本家は近藤亀蔵で、その家は現在の万才橋のたもとにあり、加古川舟運の船着場に面していました。

 近藤一族は米穀や海産物、干鰯を扱っており、天保ごろには廻船業も営み財をなしました。

 高砂の岸本家文書「高砂塩浜反別名寄帳」には、文化八年における高砂塩浜の所有者として、市場の近藤亀蔵と文蔵の名がみえます。

 それによると、亀蔵は48反余をもち、近藤家は文人学墨客の往来がたえなかったし、文人・学者への援助も惜しまなかったといいます。

 美濃部家がどのような縁で近藤家の世話になったのかは定かではありませんが、高砂の豪商の仲介で、事が進んだのであろうと想像されます。

 達吉が、小野中学校に入学したのは明治17年ですが、その翌年に財政難のために当校は廃校を余儀なくされました。

 従って、達吉が公立小野中学校に在籍したのは、最後の一年間だけでした。その後、達吉は神戸の乾行義塾に入りました。

 達吉の息子の亮吉は、高砂小学校で達吉より一級上であり、後に高砂の八代目の町長になった伊藤長平から聞いたことを自著『苦悶するデモクラシー』に次のように記しています。

 「伊藤さんは、順序をふんで小学校を卒業し、商業学校を出て、神戸の乾行義塾という英語、漢学、数学を教える塾で勉強することになったそうである。

 そこには父(達吉)も通い、英語を勉強していた。・・・・伊藤さんが行かれた時には、英語で演説するほどになっていたという。(後略)」

 小学校・中学校(現在の高校)時代は、大変な秀才でした。

 そして、明治21年に達吉は東京に遊学し、一高および東京帝大法科へ進んでいます。(no3587

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房)参照

 *写真:万才橋の袂にある近藤家の(小野市市場町)

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