ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

地域(加印)の風を読む(6) 城山の築城者はだれ

2017-02-09 08:06:39 | 地域の風を読む

 今、中世の山城であった中道子山(以下、城山とします)城跡の一部が電波塔建設により破壊されようとしています。

 とりあえず、城山の歴史を調べてみましょう。

     築城者はだれ?

 中道子山城は立派な山城です。

 それでは、①誰がこの城を築いたのか、②その時期はいつか、③いつまで続いたのか、ということが疑問になります。

 まず、①の城を築いた人物を追ってみます。

  築城者は、赤松氏則(赤松円心の四男)か、孝橋新五郎か?

 城の築城者は、はっきりしているのが普通です。

 でも、志方の城山の場合は、はっきりしません。いまのところ、謎のだらけの城となっています。

   城主を史料にさぐる

    ◇『中道山城跡発掘調査報告書』より◇

 「・・・中道子山城跡の城主は、二つの城主説が考えられてきている。

 その一つは赤松氏則(うじのり)築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはししげひろ)説である・・・」

    ◇『志方町誌』より◇

 「・・・中道子山は俗になまって「ちゅうどうさん」と呼び、城山と呼ばれる場合が多い。(中略)『志方荘古城図附註』のみは、「至徳中、赤松円心の四男氏則(うじのり)、始めて之を築く」としているが、その他の諸書はみな、孝橋新五郎繁広の築くところとして、天正の頃まで四代相続したとしている。(中略)

 氏則がこの城に入ったのは至徳年間(1384~86)あるいはそれ以前で、天神城(志方町西飯坂)を築いて、しばらくそこにいて後、この中道山子山城を築いて入ったものと思われる。

 (中略)至徳から応仁までの80年間の城主については詳しくはできないが、おそらく赤松の一族のたれかれが、たちかわり住したと思われる。

 孝橋新五郎この人が、中道子山城を築いたという記録は『播州諸城交替連綿記』以下諸書の一致するところである・・・」

 二書とも中道子山城の築城者は赤松氏則か孝橋新五郎を想定しています。

 『志方町誌』では、赤松氏則に若干分が悪いようです。

 もう少し、この二人を追うことにします。(no3475)

 *写真:城山山頂の「赤松城址」の碑

 

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