ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

地域(加印)の風を読む(21) 赤松一族の興亡(4)・置塩城について

2017-02-24 07:02:45 | 地域の風を読む

       余話として 

 「赤松氏の興亡」を書いています。

 中世の志方は、赤松氏の動向を抜きにして考えられません。

 円心から始まる赤松氏は、4代目の満祐の嘉吉の乱で惣領家はいったん潰れます。

 歴史家は、円心から嘉吉の乱までの赤松氏を「前期赤松氏」と呼んでおり、奇跡的に復活した5代・政則から8代・房則までの時代を「後期赤松氏」と呼んでいます。

    置塩城について

  蛇足を書いておきます。置塩城のことです。

 後期赤松氏の政則時代は、政治の拠点を、置塩山城(おじおやまじょう)に置き、赤松氏は見事に復活をとげました。

 そして、政則の死後の赤松氏一族のもめごとなどがあり、坂道をころげ落ちるような、見事なまでの没落の歴史です。これが通説でした。

 しかし、政則の後を継いだ義村も大規模な城を置塩城が存在したのですから、義村以降に急速に赤松氏が弱体したという説には疑問が残ります。

 文明元年(1469)に置塩山城を築城したとされる赤松政則というのですが、その頃政則は京都にいました。

 ・・・・(その後、山名氏との戦い等で)置塩山城を築くような環境ではなかったようです。

 経過をみると、政則が置塩へ移った様子はありません。というよりも、政則の時代、有力守護大名は京都に屋敷を構えるのが普通でした。

 いずれ京都に帰るので、赤松氏が置塩に居城をつくる必要はまったくないのです。

 とすると、置塩城にしても、いつ誰が、何のために築城したのかという疑問がります。 

 だらだらと、赤松興亡史を説明してきましたが、前期赤松氏は赤松惣領家を確立する時代でした。

 後期赤松氏は、衰亡と混乱の歴史ではっきりとしません。

 端的に言うと赤松一族で中道子山城をつくる必要性と経済力を持った人物が見当たらないのです。

 でも、中道子山城は存在しています。

 反面、中道子山城をつくった可能性のある人物は、かえって絞り込めるようにも思えます・・・(no3490)

 *写真:置塩城跡(ここから山頂城跡まで、徒歩で約40分ほど)

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