ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃達吉と天皇機関説(22) こんな異常な時代は、長い日本史にはなかった

2017-05-27 07:54:45 | 美濃部達吉と天皇機関説

 統帥権干犯(とうすいけんかんぽん)について、司馬遼太郎氏は『この国のかたち(四)』(文芸春秋)で次のように書かれています。その一部を読んでみます。

     統帥権干犯

 浜口(首相)は財政家で、重厚かつ清廉な人格の持ち主であった。

 かれは軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和5年(19304月ロンドン海軍軍縮条約に調印した。

 右翼や野党の政友会は、浜口を「統帥権干犯」として糾弾した。

 ・・・浜口は、この年の11月14日、むろん、殺された”統帥権干犯者”であったことはいうまでもない。

 東京駅で右翼に狙撃され、翌年、死去した。

 以後、昭和史は滅亡にむかってころがってゆく。

 このころから、統帥権は、無限・無謬(むびゆう)・神聖という神韻を帯びはじめる。他の三権(立法・行政・司法)から独立するばかりか、超越すると考えられはじめた。

 さらには、三権からの、ようかい(くちばしをいれること)もゆるさなかった。

 もう一ついえぱ、国際紛争や戦争をおこすことについても他の国政機関に対し、帷幄上奏権があるために秘密にそれをおこすことができた。

 となれば、日本国の胎内にべつの国家‐統帥権日本‐ができたともいえる。

 しかも統帥機能の長(たとえぱ参謀総長)は、首相ならびに国務大臣と同様、天皇に対し輔弼(ほひつ)の責任をもつ。天皇は、憲法上、無答責である。

 である以上・統帥機関は、なにをやろうと自由になった。

 満洲事変、日中事変・ノモンハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった.

 それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。・・・・

 軍の解釈どおりになったのは、昭和10年(1935)の美濃部事件によるといっていい。

 憲法学者美濃部達吉が「天皇機関説」の学説をもつとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。

 結果として著書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。

 美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもつ法治国家は元首も法の下にある、というだけのことであった。

 それが、議会で否定されることによって、以後、敗戦まで日本は「統帥権」国家になった。こんなばかな時代、ながい日本史にはない。(no3598

 *写真:司馬遼太郎

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