ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東播磨の中世石塔と文観(14) 分水嶺の時代

2017-04-06 10:25:01 | 東播磨の中世石塔と文観

            文観を追え  

 13世紀後半を想像しています。

 社会は、混乱の中にありました。

 とくに、南北朝の動乱は、その権威のしくみそのものが激変した時期だと考えられます。

 というのは、とうじ鎌倉幕府はまだ残り火があったと思われますが、後醍醐天皇が倒して新しい建武政府をつくりました。

     分水嶺の時代

 この建武政府は、極めて異様な政府でした。

 後醍醐は、天皇の権威と権力を極端にまで高めようとしたのです。

 それもわずか三年ぐらいでガラガラと音を立てて崩れさってしまいました。

 この建武政府の三年間は、極めて異様な事態をもたらしました。自らも倒壌します。

 つまり、当時の日本国を統合していた幕府と天皇の二つの大きな権威が、一挙に壊れてしまったのです。

 しかも、壊れ方が尋常でなかったのです。

 後醍醐天皇が、古代からの天皇制の伝統を背景にして、異様なほどに天皇の権力を強めようとしたのですが、そういう王権が一挙に崩れたわけですから、これは社会を統合する権威のあり方を大きく変えることにならざるをえませんでした。

 結果、13世紀後半から14世紀にかけての時期は時代の大きな転換期となりました。日本歴史の大きな分水嶺となりました。

 しかし一方、この時代は貨幣が社会に深く浸透・流通しはじめた時代であったことも忘れてはなりません。

 読み書き、計算の能力も庶民にひろがり、さまざまな社会的な発展がありました。

 つまり、南北朝時代は、日本史における大きな分水嶺の時代となった時代でした。

 この南北朝時代の主役は、まぎれもなく後醍醐天皇でした。そして、文観は後醍醐天皇のブレーンでした。

 いままで、加古川(市)と文観の関係ははっきりとしませんでした。

 その文観が加古川生まれということが石造物の研究から確実視されようとしています。

 後醍醐天皇・文観・西大寺の関係を「東播磨の中世石塔と文観(山川論文)」から常楽寺の宝塔(加古川市加古川町大野)・一乗寺の傘塔婆(加西市)・報恩寺の五輪塔(加古川市平荘町)・福田寺層塔(加古川市加古川町稲屋)を通してみてきました。

 いま、加古川市の中世の歴史が熱くなってきました。ワクワクしてきます。

 今後、東播磨(加古川市)の中世・文観の研究が進み、さらに文観がさらに姿をあらわれてくると考えられますが、ここでいったん文観の話題をお休みします。(no3535

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