ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(41) 申義堂研究(1)・設立は文化年間

2014-11-04 08:49:39 | 高砂市

 江戸時代、高砂は飾磨とともに姫路藩の経済を支える重要な町として繁栄していました。

 そして、「申義堂(しんぎどう)」という庶民の学校も建設されました。

 しばらく、この申義堂について述べることにします。

 ちょっと、気取って「申義堂研究」としました。

    「申義堂」の設立は文化年間(1804~1817)

 申義堂は、江戸時代に高砂地域に設立された唯一の公的性格をもった教育施設です。

 ところが、その成立については、史料が失われ明治以降に記されたいろいろな文献に述べられている所からうかがうしかありません。

 申義堂と関わり深かった高砂の岸本家の文書調査をもとに研究された木村重圭氏の研究『姫路藩郷学申義堂と岸本家』によって、大体の姿を知ることができます。

 それらから得られる申義堂の成立は次のようです。

  (*豪商、岸本家については後に述べることにします)

 申義堂は、文化年間(1804~18)高砂北本町に、姫路藩家老・河合寸翁の意見によって設立された町民子弟を対象とする教育施設で、藩からは維持運営費として25俵(10石)が支給せられていました。

 申義堂が文化年間の開設という点については、大方が一致しています。

 出石藩の儒者・桜井東門が「海辺一覧」という文中に、文政十年(1827)に申義堂を訪れたことみえ、文政十年にはすでにできていたことは確実です。

 さらに重要な事実は、高砂神社の文政二年(1819)の「社頭御用録」に姫路蕃主・酒井忠実が同年3月22日に申義堂および高砂神社を訪れることを示す記録があります。

 この史料は、藩が高砂神社及び町大年寄りにあてた親書であり、信用できる文書です。

 とすれば、申義堂は、すでに文政二年には本格的に展開がすでになされており、文政二年よりそれほど遠くない時期に開設されていたと考えてよいようです。

  *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照

 *写真:再建された申義堂(十輪寺山門のすぐ南)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 高砂市を歩く(40) 工楽... | トップ | 高砂市を歩く(42) 申義... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。