今回も嘉吉の乱の続きで、東志方の話が登場しません。ご了承ください。
千代丸急死、しかし
嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)弟・満雅の子・千代丸は城山城無事脱出しました。
それを確かめて、満祐は自害しました。
この時、千代丸は9才でした。
そして、千代丸は京都三条家の所領である近江の願成寺へ送り届けられました。
というのは、満祐の弟の満雅の妻は京都三条家の出だったからです。
そこで、かくまわれて10年あまり後、千代丸は還俗して時勝と名のりました。
やがて、「赤松家の血筋を引く方が生きておられ」というニュースは旧臣に勇気を与えました。
が、それもつかの間、康正元年(1455)23歳で、時勝は急死します。
赤松政則の誕生そして赤松家復活
しかし、偶然にもその年、時勝の死の前に男子が生まれました。
次郎法師丸です。何ともドラマチックな話です。
彼は、後の赤松政則です。
家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。
南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができました。
*神璽(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)
奇跡的に、この神璽奪回作戦に成功し、赤松家は復活を遂げます。
この神璽奪回作戦時に赤松方により皇族の人が数人殺されました。
そのため、赤松氏は逆賊だともいわれていますが、世はまさに下剋上の時代です。
そういう事件はたびたび起きています。
この一事を持って「赤松は逆賊である」と決めつけられないと思います。
*絵:赤松政則像