ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

美濃部達吉と天皇機関説(9)申義堂廃校後の達吉の父・秀芳

2017-05-15 08:19:43 | 美濃部達吉と天皇機関説

       申義堂廃校後も高砂の教育に力を注ぐ

 秀芳は申義堂が廃止になった後も高砂の教育に力を注いでいます。

 明治17年頃、加古郡第四番学区の学務委員を務めました。

 なお、秀芳は、申義堂の教授を務めていたころ、近隣において出張講義を行っています。

 加東郡社村(現・加東市社)の佐保神社に、秀芳の講義記録が残されています。

 この出張講義は、当時(幕末から明治初期)、佐保神社神官で佐保塾を開いていた神崎長平よりの招聘と考えられます。

 それというのは、長平の妻・いくが高砂町田町(大蔵元分家小林網屋弥太郎の長女)の出であり、秀芳の家とは目と鼻の先にあり、同郷の誼ということで講義計画が進められたとおもわれます。

 講義の内容は、主に文明開化という新しい時代を迎えるにあたっての心構えといったことを説います。

 長女のみちは1867年(慶応3)、長男の俊吉は1869年(明治2)、そして次男の達吉は、1873年(明治6)にそれぞれ出生しています。

 秀芳は、明治22年の町村制の施行により高砂町会議員を、引き続き明治26年から同30年まで二代目の高砂町長をつとめ、公共事業に尽力しました。

 明治288月に妻を亡くした後、後妻をもらったようです。

 彼は町長を辞めたのち、息子らの出世を祈りながら、明治37年2月1日に亡くなりました。享年64歳でした。(no3584

 *写真:佐保神社(加東市社)

 *『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房)参照

 

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