言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

二度目の出会い   ・・・  謡・仕舞、そして能

2017年11月20日 | 歌舞伎・能など
謡や仕舞を習っている方に出会うと、その方がどうして稽古を始めたのかが知りたくなります。

私の周囲に限られるかもしれませんが、男性では、大学時代の部活で始めた方が圧倒的に多く、その殆んどが、誘われるままに部室についていき、帰りに居酒屋にていつのまにか入部、というケースです。
もちろんそれまで能など観たことはなかったという方が多いのですが、意外にもこの「無理やり型」の方が、お仕事が一段落した今、プロの先生について謡・仕舞を学び能を舞われるまでになり、小鼓や大鼓などの囃子の稽古もされたりして、「はまって」いらっしゃることが多いというのは、興味深いことです。

男女を問わず多いと感じるのが、ご本人あるいはご両親が、富山県や新潟県のご出身というケースです。
そのような方は大抵、家に謡本があったとか、ご家族のどなたかがなさっていらしたとおっしゃいます。
また富山ご出身のある方は、ご家族はなさらなかったが、高校通学の電車で同じ車両に乗る人がいつも謡を口ずさんでいて、それがきっかけで興味を持ち、高校で能楽のクラブに入り今に至るとのこと。
新潟ご出身のある方は、高校生の時に、尊敬する国語の先生にお能に連れて行っていただき、強い関心を抱くようになったとのこと。
身近に謡や能があり興味を抱く。
文化の理想的な伝承とはこのようなものではないかと、「富山・新潟型」のお話をうかがうといつも感じます。

一番最近お聞きした方は、定年を迎える頃に、何か声を出すものをやりたいと思い、カラオケ教室にと思っていたところ、友人に先生を紹介されて始めたとのこと。
始めてから能の本を読み、今は積極的に様々な謡会にも参加されるなど、これまた「はまって」いらっしゃいます。


*****


11月17日Eテレ『にっぽんの芸能』の「~旬の和題~ みみより」コーナーで、能楽・喜多流の、世界に能を広めるために立ち上げた活動「能トレーニングプロジェクト東京」が取り上げられていました。
外国人に、謡・仕舞・小鼓を三週間集中して指導するという講座です。
イギリスやオーストラリア等世界各地から、俳優や演劇を学ぶ学生が集まりました。

初日の謡の稽古に、「文章の意味もわからず、いきなり声を出せと言われて、戸惑う生徒。」
とナレーションが入ります。
「演劇には、脚本の内容を深く読み込むことが不可欠」と考え、「自己表現を追及してきた」生徒達にとり、自分が何の役なのか、何を言っているのかわからないこと、そして決められたことをその通りにすることに、受け入れ難さがある様子です。

講座の最終日、これまでの成果を能舞台で発表するという、仕舞の様子が紹介されました。
さて自主練習でも苦労していた、演劇を学ぶ20才のアメリカの青年の番です。
『高砂』の仕舞は、出だしに次のように謡いながら、いくつかの動きをしなくてはなりません。

「げに様々の舞姫の
 声も澄むなり住の江の
 松影も映るなる
 青海波とはこれやらん」

謡いながら動くというのは、日本語がわかる者にとっても、初めたばかりではなかなか難しいことです。
途中で謡がわからなくなってしまいました。
それでも最後まで舞ったのだと思いますが、画面では落ち込んだ様子で楽屋に戻ってきた彼を、外国の方たちが「大丈夫、大丈夫」と慰めるシーンになりました。
「しかし能楽師の大島さんの見方は違いました。」とナレーション。

大島輝久さんはこう述べます。
「彼が最初謡い出す前に、自分の中に非常に大きなエネルギーを籠めて謡い出したんですよね。
それは普段の稽古を大きく超えた力が、あの瞬間彼の中に宿った。
その自分の中に生まれた大きなエネルギーを、ちょっとコントロールしきれずに、謡を間違えてしまった、というか出なくなってしまった。
こちらが一生忘れない、とてもいい舞台だったと思います。」

また生徒の一人である、イスラエル出身の演劇学の教授は、仕舞の舞台を終えて、次のように感想を述べました。
「僕の右手は少し震えていたよ。
能舞台に満ちるエネルギー。
決して止まることのないエネルギーが、この空間にはある。
時に緊迫し、時に緩む、そしてまた緊迫する。
とても美しい。」

プロジェクトに参加した外国の方達の優れた感受性、そしてその言葉が仕舞の一つの特質を適格に表していることに、感銘を受けました。


*****


私が謡・仕舞の稽古を始めたきっかけは、高校時代、母に連れられ、あるいは友人のお母様にお誘いいただき、何度かお能を観に行ったことだったと思います。
けれどもそこで感動したので稽古を、というわけではありませんでした。
正直に申しますと、わからなかったので、知りたいと思った、わかるようになりたいと思った。
それが私の動機だと思います。


始めてみると、おうむ返しの稽古という形で間近に聞くプロの能楽師の方の謡には、字として書かれた言葉が、例えば景色ならばジオラマのように立体として盛り上がってくるような、劇的な場面ならば何かが動き出すような、そんな感じを受けました。
「謡は究極の朗読」という言葉を聞くことがありますが、それに触れて毎回感動したといっても過言ではないと思います。
もっとも、それは一番最初からではなく、何が何だかわからない謡本の記号がわかるようになってからのことですが…。

そして仕舞にも、前述の外国の方のような言葉は見つけられませんでしたが、止まっていても何かが動いているような感じがしました。
あるいは優れた舞い手が舞台に立つと、空気がとても張りつめたものになることを感じ、次第に舞の稽古にもとても魅力を感じるようになりました。


けれどもこれは、あくまでも稽古事としての話であり、能への最大のアプローチは、ストーリーの読み込みや、言葉の意味・歴史的地理的あるいは文学的背景の理解にあるのではないかと、この頃特に感じます。
語られていること、演じられていることがわかった上でなければ、私には何かを感じることは難しく思われます。


最初の約10年の後の、付いたり離れたりの期間が長かった私としては最近、能と再会したような感覚があります。
若い時よりもゆっくりしたペースではありますが、色々な方向から更に能を知り、最初の動機への答えに近づきたいと思っています。


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