言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

佐渡と能(2)   ・・・ 大久保長安のこと

2017年04月10日 | 歌舞伎・能など
佐渡と能(1)に少し登場した大久保長安ですが、今まで名前だけは知っていたものの、意識は素通りしていたようで、どのような人物なのかほとんど知りませんでした。

奉行になった長安は、能を演じられるだけのメンバーを引き連れて佐渡に行ったということから、形ばかりの視察の後はのんびり遊興、奉行の職を勤めた功により相応の地位について、やがて家督を譲り穏やかに一生を終えた武士を、私は勝手に想像していました。

ところが素通りしたものの気になって、今回ちょっと振り返って見ましたら、予想外の人物がそこに立っていたのです。


予想外だったことを3つ挙げさせていただきます。

1つ目はその出身です。
彼の祖父は、春日大社お抱えの金春流の能楽師でした。
そして父は狂言方の能楽師となり、武田信玄に抱えられていたのです。
長安とその兄も、最初は能楽師としてでしたが、すぐに士分にとりたてられ、兄弟揃って信玄の家臣となりました。
長篠の合戦で武田は敗北、兄は戦死しましたが、生き延びた長安はやがて家康に見いだされ、ここに徳川の家臣となったのでした。

佐渡に能を持って行ったのは、もちろん贅沢な楽しみのためだったと思いますが、能の家に生まれ育ち、自らもかつては能楽師であった彼にとって、能は常に傍らになくてはならないものだったのかもしれません。

2つ目は、家臣としての手腕と異例の出世です。
徳川の直轄地における彼の業績の主だったものを、箇条書きで挙げてみます。

・関東一帯の検地、土地台帳の作成
・警備・治安維持のための軍団の組織
・街道や海・河川の交通網の整備
・佐渡をはじめ石見、甲斐、生野、伊豆などの鉱山奉行

最後の鉱山奉行については、有能な山師の確保、新しい採掘法や製錬技術の導入などにより、採掘量を増やしました。
また例えば、佐渡にも慶長13年から14年にかけて再度渡っているのですが、
「このときの目的は、鉱山における湧水問題の解決のためである。」と川上隆志氏は著書『江戸の金山奉行 大久保長安の謎』(現代書館)で述べておられます。
このようなことから、佐渡奉行として、自ら積極的に金山の経営にあたったことが想像されます。

徳川の統治を支えるとも言えるような重要な仕事を、着々と成し遂げていった長安は、佐渡奉行に任命された年、処務(後の勘定)奉行、そして年寄(後の老中)にも任命され、事実上徳川の直轄地統治のトップとなり、権勢を誇ることとなります。
ところが…。

3つ目は、彼の死後です。
中風を患った長安は、慶長18年69歳で亡くなりました。
その地位・権勢に相応しい盛大な葬儀が行われるはずでした。
けれども死の数日後、不正な蓄財という科で葬儀中止の命が下ります。
その約2か月後には息子7人全員の切腹、その後数か月の内に近親者、姻戚にあたる者達も処分を受けたのでした。
長安の徳川への貢献は、まるで彼の死とともに葬り去られてしまったような結末だったのです。

解明されていないことも多い長安の人生、その他の罪の有無にも処罰の重さの理由についても諸説あり、多くの作家が小説にもしていますが、穏やかではなかったことは事実のようです。


佐渡金山を訪ねた時、平成元年まで採掘されていたと知りびっくりしましたが、今は金山としての役目を終え、静かに眠っています。
最初の印象とは随分違った大久保長安は、業績を称えられることもなく、子供は切腹させられてしまいました。

     

けれども金山の発見と大久保長安の人生が交わったことで、今日まで佐渡に多くの能舞台が残り、多くの能が舞われるに至っています。
私にはそのめぐりあわせががとても面白く、また不思議に思えてならないのです。

30年ほど前は、新潟港から佐渡の両津港までホバークラフトで、私は少々酔いそうになってしまいましたが、4年前再訪の折のジェットフォイルは、殆ど上下の揺れを感じることなく、とてもなめらかで快適な一時間でした。
今度は、是非お能を観に、また佐渡を訪ねたいと思っています。

     

     


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