言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

能のシテと視界

2017年09月28日 | 歌舞伎・能など
以前、当時30代だった能楽師の方の奥様から、ご主人について、
「お能のシテを勤める一週間位前になると、一日中不機嫌になり、可笑しいことを言っても全然笑わなくなる。」
とお聞きしたことがあります。

その方その方で随分違いはあるようですが、シテとして能を舞う前には、どなたでもかなりの緊張状態に置かれることは想像に難くありません。

能楽師の方であるなら、シテを勤めることが決まる前から、新作や珍しい能は例外として、その能の謡や舞は覚えていて当然と言えます。
そしてシテを演じるとなれば、失敗のないよう稽古を重ね、若い能楽師の方ならば先輩や囃子の方にも教えを乞うなどして、万全を期すはずです。

それでも人間ですから、時には言葉を間違えたり忘れるということがあるようです。
学割を使って、あるいは社会人になりたての頃に頻繁に観ていた時には、不思議に一度もありませんでしたが、多いわけではないここ4年間の中で、私は二回、能の途中にシテが謡を忘れたという出来事を経験しました。

その二回とももちろん、そのシテの方の能を観たいと思い、特に二度目については、見巧者二人が太鼓判を押す能楽師の方の舞台でした。
また当日前半のプログラムが、非常に力のこもった熱演で感動しましたので、続く能への期待もとても膨らんでいました。
そしていよいよ舞台が始まり、しっとりとした地謡に登場した姿は大変美しく、役の風情たっぷりの出だしでした。
ところが、少し進んだ時点でのある一句の、最初の語「今は」で止まってしまったのです。
「今は」、大変しばしば登場する語、その後に続く謡の選択を迷ってしまったのではないかと思います。

そのような時の例に従い、後見が後ろから続きの謡を教えました。
一度目。
二度目の後見の声を聞いて、シテは漸く続きを謡い始めました。
以前経験した時も、ほぼ同じような感じだったと記憶しています。

時にはあることと思いつつ、物語の世界の主役と見ていた人が、そこからは一人の能役者さんに見えてしまい、最後まで何となくはらはらしてしまいました。
ちょっと残念でしたが、前半の演目に満足したことを収穫として帰路につきました。

駅まで歩きながら、そう言えば私が経験した二度とも、後見からの声掛けが二度必要だったと思いました。

能楽師の方の記憶力、少なくとも能、謡についての記憶は、当然のことではありますがいつもさすがと感服します。
まるで録音の早送りのように最初から最後まで謡っていらっしゃる様子はしばしば拝見しますし、たぶん常時何十、いえ百を超える謡を暗記していらっしゃるのではないかと思います。
しかもシテを勤める準備をした謡、もし忘れたり迷ったりしても、一言つけてもらえれば、即座に続きが出てきそうに思うのに、何故二度必要なのか。

考えて、これが正解とわかったわけではありませんが、以前着けさせてもらった時の、中は暗くて、外は大変狭く遠くにしか見えない、まるで長いトンネルのこちらから向こうを見ているような、能面からの視界を思い出しました。
例えば眼帯をつけた時など、眼帯側から声を掛けられると聞き取りづらくて、人の聴覚は視覚によって補われていることを感じたことがあります。
能面を着けたシテは、たぶん一度では、後見の声が聞き取れなかったのではないかと思いました。

能舞台の柱の存在、また囃子の大鼓(おおつづみ)と小鼓(こつづみ)の方が正座ではなく腰かけている理由は、能面からの視界の目印のためだと聞いています。

 
 ≪左から大鼓、小鼓、笛≫

また橋掛かりが本舞台に向かって緩やかに上りの傾斜がついているのも、その感覚で橋掛かりの終わりを知るためと聞きました。
能楽師の方となれば、一年に何番も、多い方は10番以上も舞われるのですから、慣れているのではと思ってしまいますが、とても名高い能楽師の方が、お若い頃に舞台から落ちたことがあるともうかがいました。

暗く、極度に狭められた視界、それだけでも孤独を感じるように思います。
それがプロと言ってしまえばそれまでですが、間違わず、忘れず、完全に謡い、舞わなくてはと思う気持ちを想像すると、舞台前に不機嫌になったり笑えなくなったりするのも理解できる気がしました。
そして今日のシテの方の無念な気持ちも想像しました。


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